「かながわ酪農業協同組合」はAIと映像データを活用した牛の健康管理の実現を目指し、NTT東日本とともに実証実験を2020年5月から行っている。酪農業におけるICTへの取り組みとは、どのようなものなのか。「かながわ酪農業協同組合」(以下、かな酪)で代表理事組合長を務める長谷川行夫氏にうかがった。

  • かながわ酪農業協同組合の長谷川行夫代表理事組合長(中央)とNTT東日本地域ICT化推進部主査の川畑直樹氏(右)、NTTビズリンクビジネスソリューション本部セールスエンジニアリング部シニアディレクター(新領域事業創成)の今井敏明氏(左)

IoTカメラが酪農の働き方改革を推進

消費者の多い首都圏に近く、食品メーカーが多いことから全国2位の生乳の処理量を誇る神奈川県。日本でも神奈川県の酪農の歴史は古く、過去には生乳生産量でも全国2位を誇っていたそうだが、県内の酪農家の数は現在135戸と都市化や高齢化で減少傾向にある。

  • 牛舎にIoTカメラを導入し、酪農における"働き方改革"に取り組む長谷川行夫代表理事組合長

昨年5月、かな酪の長谷川氏はNTT東日本の実証実験に協力するかたちで、自身が所有する牛舎にIoTカメラを導入。酪農における"働き方改革"に取り組んできた。

「神奈川県には酪農業協同組合が2つあり、かな酪は現在86軒の酪農家で構成されています。そのうち7割ほどは後継者がいるような状況で。若手の酪農家も比較的多く所属していますね」(長谷川氏)

これまでも酪農業では防犯のための監視カメラなどは広く使われてきたが、NTT東日本地域ICT化推進部主査の川畑直樹氏は今回の実証実験で導入されたIoTカメラについて、次のように紹介する。

「もともと農業分野での鳥獣害対策や工場などで多く利用されてきたIoTカメラで、遠隔から映像を確認できることから、さまざまな現場で時間的・経済的な損失を防ぐために使われてきました。屋外使用を想定した防塵・防水仕様で、牛舎のように過酷な環境でも壊れず、夜間撮影にも対応しています。多機能で丈夫、かつWi-Fiが使えるカメラって、実はかなり珍しいんです」。

  • 牛舎に取り付けられたIoTカメラ

「かな酪」には自宅から離れた立地に牛舎がある酪農家も多いそうだが、このIoTカメラを使用すれば、遠隔地からでもスマホなどで牛舎や牛の状態を高画質な映像で確認可能。酪農家の稼働時間の大幅な削減などにつながる。

  • 実際に牛舎を映したIoTカメラの映像、スマホなどで確認できる

これまで特に酪農家の大きな負担となってきたのが牛の種付けや分娩だ。長谷川氏は「乳牛の場合は15カ月に一回ほどお産をさせないと乳量の増産ができないので、酪農家にとって分娩や種付けの管理は経営的にも非常に重要です」と語った。

「正常なお産なら人間が介助しなくても無事に済みますが、中には逆子や羊膜の状態で窒息死してしまう事故もあります。私のところでは少なくても年間1〜2頭の子牛が何かしらのトラブルで死んでしまっていましたが、IoTカメラ導入後はそうした事故やトラブルはまだ起きていません」(長谷川氏)

コタツでテレビを見ながら牛舎の様子を確認

「子牛が1頭死んでしまうと、それだけで20万円ほどの負担が掛かりますし、将来的に生乳を搾れる雌牛の場合、経済的な損失はさらに大きいと言えます。牛の妊娠期間は約280日間で、普通はその前後10日間が予定日になりますが、はっきりした分娩の徴候が現れるまで一頭に付きっきりになることも現実的には難しい。でも、スマホなどで遠隔から牛の状態を把握しやすくなれば、お産の際に問題が起きても素早く対応しやすくなります」(長谷川氏)

  • 遠隔で牛の状態を把握

カメラ本体や牛舎にWi-Fiを引き込むインフラ面で初期投資は必要になるが、ランニングコストとしては月々の通信費とサポート使用料のみ。十分に元を取れるかたちで年間の運用費用を賄えるという。経営的なメリットが大きさから、かな酪での導入事例は1年足らずで長谷川氏を含めて6軒まで増加した。

「IoTカメラの導入を決めた酪農家の中には、『寒い冬の日にわざわざ牛舎まで様子を見に行かなくても、コタツでテレビを見ている合間に確認できるからすごいラク』と言う人もいました。今のところクレームのような声もなく、非常に好評です。実際にスマホで映像を見せれば、酪農家はすぐその便利さが理解できる。導入件数は今後も着実に増えていくと思います」(長谷川氏)

単に離れた場所から映像が見られるだけでなく、タイムラインを遡って過去の映像も見られるほか、カメラにはズームイン/アウトやスピーカーの機能も搭載されている。出先から映像を見ながら、現場の従業員に電話よりも具体的で的確な指示を出せるといった利便性もあるようだ。

  • 夜間もはっきりと確認できる

「組合には自宅から牛舎まで車で30分ほど離れている酪農家もいて、その行き来だけでもけっこうな時間が掛かります。牛舎に一度行くと、自宅へ戻ったり、着替えたりするのもいちいち面倒なので、結局ずっと牛舎から離れられず、孫や子供と接する時間が少ないと感じる酪農家は多い。そこのメリットも大きいと思いますね」(長谷川氏)

AIが発情や分娩の徴候を検知

ベテランの酪農家は、およそ15ヶ月間隔で分娩させることで1頭の牛から安定した乳量を維持・管理するそうだが、分娩に加えて種付けのタイミングの判断で苦労する若手酪農家も少なくないという。

  • 牛の出産の様子(IoTカメラで撮影)

「発情ホルモンと泌乳ホルモンは相反するホルモンで、牛乳が一番出ている分娩後60〜90日の泌乳ピークのタイミングで種付けするのが理想的なんですが、発情の徴候の表れやすさやさまざまな周期の日数には個体差もあります。しかも、牛に種付けして妊娠できる発情の間隔は基本的に21日周期なので、一度そのタイミングを逃すとそれだけ分娩が遠くなる。頭数も多い中で一頭ずつ観察して、それぞれの発情や種付けの最適なタイミングを判断するのは労力が要るし、難しいことなんです」(長谷川氏)

実証実験の開始から間もなく1年だが、今後はこれまで収集してきた映像データを解析。発情・分娩の徴候、病気や怪我の有無をAIによる映像分析で自動的に検知し、スマホへ通知するシステムの実用化を進めていく。

「ベテランの酪農家さんが持っている牛の仕草や行動に関する知識をどれだけデータ化して、AIでうまく運用していけるかが今後の大切なポイント。スマホにアラートなどを出すにしても、具体的にどういった通知方法が最適なのか。仕様面も含めて酪農家の方々にヒアリングしつつ、より良い仕組みづくりをしていければと思います」(川畑氏)

とりわけ酪農におけるAIの運用は分娩や種付けが重要な軸になるようだが、AIを使った推論技術の開発にあたるNTTビズリンクビジネスソリューション本部セールスエンジニアリング部シニアディレクター(新領域事業創成)の今井敏明氏はこう解説した。

「まずはこれまでに蓄積された映像データを元に、AIの学習用データをつくっていきます。一口にAIと言っても、それぞれの分野ごとに特徴的な技術を開発する必要があるので、なかなか大変なんですが……(笑)。出産・発情などテーマ別の予測につながる映像シーンと、ベテラン酪農家の方々の知識を紐付けるアノテーションの作業を行い、これから2カ月ほどで精度の確認まで持っていきたい」

「自分たち酪農家は牛について聞かれれば答えられますが、その知識とICTやAIといった技術との橋渡しは、酪農家だけでは難しい。いわゆるスマート農業の取り組みは進んでいますが、酪農や畜産は相手が動物なだけに少し複雑なところもあって、そうした点では遅れていた。新しい技術を積極的に使えば、大きな負担軽減につながると実感していますし、そのための実証実験にはできる限り協力を惜しまないつもりです」と、最後に期待を述べた長谷川氏。

動物相手の酪農業は休みが少なく、キツい仕事というイメージも付き物だが、今後こうしたICTやAIの技術が普及していけば、酪農家の"働き方"のイメージも変わるかもしれない。