いま、現代に生きる人間の多くが経験したことのない事態に直面しています。こんな時代にこそ、わたしたちには自分をコントロールする力、いわば自制心が求められています。自分の価値観はどんなもので、いまの状況をどのようにとらえ、どう行動するのか—。これらをあらためて考えることで自制心を、なにが起きてもブレない自分の軸(信念)のありかを見つける必要があります。

それらを身につけていくには、学ぶ姿勢や意欲が欠かせません。これまでの著書累計出版部数が1000万部を超え、「知の巨匠」として知られる、明治大学文学部教授・齋藤孝先生が学びの本質を教えてくれます。

■活力ある人間はネガティブな状況も刺激にする

職場をはじめ様々な場所で多くの人が影響を受けているコロナ禍ですが、考え方によっては、むしろ自分の価値観をたしかめるいいタイミングになっていると見ることもできます。それには、自分にとって大切なものごとを「再構成」するための思考技術が欠かせません。この技術が有用なのは、現実を直接変えることはできなくても、自分の考え方やあり方なら変えていけるからです。

わたしたちにはいま、これまでならしなかったような思考や行動にも貪欲に挑戦し、自分の大切なものにしていく積極的な姿勢が求められています。自分のライフスタイルを再構成していく感覚がとても大切なのです。

ライフスタイルの再構成については、どんなことが考えられるでしょう? 学びに寄せていえば、長編小説を読むのはいい試みです。トルストイの『戦争と平和』のような広く深い小説世界に潜っていくにはそれなりの時間が必要で、思考力(知的体力)や集中力が求められます。最後まで読み抜く体力も必要でしょう。

そうしたこれまであまりしてこなかった種類の思考や行動をするからこそ、体験したことのない楽しさを味わえて、自分の新たなライフスタイルを見出すことができます。

トーマス・マンの『魔の山』では、ハンス・カストルプ青年がサナトリウムで療養し、そこにいる面々と7年間、それこそ身動きが取れない状態で顔を合わせ、話し、思考します。そうしたいわば隔離された状況のなかでも、お互いが真剣に向き合うことによって大切ななにかが見出され、青年は成長していきます。

なにがいいたいのかというと、パンデミック以降わたしたちにもたらされた状況も、一種の刺激に満ちた体験としてとらえればいいのです。真に活力ある人間は、ネガティブな状況さえも刺激としてとらえます。そして、その刺激に満ちた状況が、自分をさらに活性化してくれると考えます。

真に活力ある人は、大変な状況を、心のどこかで待ち望んでいるふしがあります。もちろん、多くの人が不幸になるのを望んでいるという意味ではなく、イレギュラーな出来事を楽しむということです。毎日同じ出来事の繰り返しだと、生活の一つひとつがあたりまえになって、刺激がありません。でも、日常にイレギュラーな事態が起こると、一瞬脳が混乱します。それを、楽しいと思えるかどうか—。

困難かつ未知の状況だからこそ、いまこのときにしか体験できないことに挑戦するための、またとない機会にもなっているのです。

■「学び」とは、つねに新しい考え方を獲得していくこと

わたしの場合も、イレギュラーな事態に直面しなければ、たとえばオンライン授業を行うことはなかったと思います。わたしは人と直接対面するのが好きなので、やはり授業は生のライブでなければと思っているタイプの人間でした。

でも、必要に迫られてオンライン授業をしてみると、グループディスカッションはできるし、画面共有で発表もできる。出席率もよく、お互いに顔を見ながら楽しく過ごせます。オンラインはこんなにいいものかと目から鱗が落ちました。人間は変革を迫られたときにはじめて、それに対応するために工夫をする。そのことを、あらためて再認識したのです。

いまだ経済的、あるいは心理的に追い込まれている人はたくさんいます。2020年に『鬼 滅の刃』が大ヒットしましたが、奇くしくも、パンデミックは一種の鬼のようなものなのかもしれません。侵食されてしまうと自分が自分でなくなってしまうでしょう。

でも、そんなときこそ、この状況を「我に課す一択の運命と覚悟する」(『鬼滅の刃』挿入歌「竈門炭治郎のうた」の一節)という前向きな気持ちを持って進んでいかなければ、後ろからやってきた鬼に食われてしまうと感じます。

だから、つねに新しい考え方を獲得していきましょう。まわりの状況がどうであっても、新しいことを学ぶ意思を持つ。すると、いろいろなものごとや自分の感情に気づくことができます。

「ひとりで考える時間を持つのも案外いいものだな」「家族でこんなに向き合った経験はなかったな」などと、難しい状況でも「こんな体験ができるんだ!」と積極的に考える必要があるのです。

それが自分をコントロールする頭の働きであり、「学び」ではないでしょうか。

■「わからないけれど、なんかすごい!」を求める

わたしは真の学びは、つねに新しい考え方を獲得していくことに加えて、「つねに深い世界を求めていく」姿勢によって得られると考えています。

いまはインターネット上にあらゆる情報があふれており、さらに自身に最適化された情報も入手しやすく、検索エンジンやSNSなどをとおして情報に触れている状況は、いわばずっと浅瀬を歩いているようなものです。

海に入っても、水が足首やすねあたりの浅い場所では、魚を探してもなかなか見つかりません。浅い世界では、誰でも手に入れられる砂のような情報を、ただ効率よく得ているだけに過ぎないのです。

そうではなく、魚を獲るためには、それなりに深い場所へと潜らなければなりません。つねに深い世界を求めて沈潜していく力—それが、知的体力です。

そして、その知的体力を養うもっとも基本的な方法が読書です。たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄きょうだい弟』を読むとなると、はっきりいって疲れます。何百ページの本が複数巻もあるとなると、どうにも「無理」だと感じてしまうでしょう。いわばこれは、深い海底に潜む深海魚のような本なのです。

でも、1ページ1メートルとして、何千メートルも潜っていかなければ、『カラマーゾフの兄弟』の最後のシーンの素晴らしさは味わえません。あらすじだけを読んでも意味がないのは、自分の力で深く、深く潜っていく時間こそが大切だからです。この沈潜力を鍛える過程で、知的体力が養われます。

『カラマーゾフの兄弟』のような小説を読むと、「難しい」「わからない」と感じる人もいると思います。でも、沈潜力は、まさにわからないものにチャレンジしていく力でもあります。もちろん、全部が全部わからなければ嫌になってしまいますが、少しずつ読んでいけば、「納得できるわからなさ」に出会えるはずです。

わからないのだけど、「なにかがすごい」ということはわかる。そんな感覚を体験して、とことん味わってみる。そうすれば、「もっと知りたい」と思うようになっていきます。

この精神の働きが、知性というものです。

逆にいえば、「わからないから興味がない」と思ってしまうのは、知性がない証拠です。知的感性が低いといってもいいでしょう。「わからないけれど、なんかすごい!」「難しいけれど、力が湧いてくる」。こうした感覚を覚えるからこそ、「このわからなさに挑戦したい」と思い、わからないものを読み続けることができるわけです。

■「妬まないこと」は知性の証

わたしは、現代は「不寛容の時代」だと考えています。もちろん、社会自体は進歩しており、システムとしては、様々な面で寛容になってきてはいます。

では、そこに生きる人間は寛容になっているか、度量が広くなっているかというと、必ずしもそうとはいえないのではないでしょうか。それこそインターネットを見れば一目瞭然で、妬みやバッシングなど罵詈雑言があふれている状態です。

先に、「わからないけれど、なんかすごい!」「だからこそ、もっと知りたい」「理解してみたい」と思う精神の働きが、知性だと書きました。そして、この働きは「寛容」につながっています。

たとえば、ものの考え方において、「こんな考え方もあるんだ」「A、B、Cそれぞれの立場からはこう見えるんだ」というふうに知ろうとする力は、自分と異なる他者や考え方を認められる姿勢に直結しています。

つまり、「妬まないこと」は知性の証なのです。

「あの人はずるい」「自分はなぜ報われないのだろう」と、他人を妬む気持ちは誰にでもあります。でも、そのような現実を現実として受け止め、それを自分の力で理解しようとする強さが、知性です。この強さがなければ、自分に不都合な現実を受け止められずに、ひとりよがりな妄想にとらわれて危険な状態になります。

妬みからの解放を、知性によって実現する——。

わたしは、これが学びのひとつの目標であり、成果だと考えています。もし、「愛すること」と「理解すること」のどちらが大事ですか? と問われたら、わたしは理解することのほうに軍配を上げます。なぜなら、愛情は不安定なものですが、理解は基本的になくならないからです。

「理解できなくなった」という経験はあまりなく、新たな理解が積み重なっていくととらえることができます。そして、新たな理解が積み重なれば、また愛することができる場合も生じるでしょう。

たとえば、幼い子どもが泣きやまないとき、現代科学の理解があれば、「もしかしたら、セロトニン不足などの障害によって情緒が不安定になっているのかもしれない」と考えることができます。親の接し方ではなく、脳内のホルモンがもともと不足しているせいだとわかれば、落ち着いて問題に対処できます。

それができない逆の例が、親が精神的に追い詰められて虐待してしまうケースです。もともと愛情はあったにしても、理解がなければ続かないわけです。

理解の力を育んでいけば、異国や異文化の人たちと話しても、「そんな考え方もあるんだ」「こんないい見方もあるんだ」と、相手に対しての感情が変わります。いま世界には、異国や異文化の人たちを激しく攻撃する排他的な人たちがいますが、不寛容な人は、自らの知性で理解する姿勢を放棄しているのです。

たとえ理解しがたいものごとに出会ったとしても、それでも理解しようとする姿勢こそが、いまこの危機の時代に必要とされていると思います。

自分の理解力の幅や、思考の範囲を広げていくのが、学びの楽しさです。普段わたしたちが見ているのはごく限られた世界であり、立場や視座を変えれば、まったくちがう世界像が現れます。自分の知らないことや理解できないことがたくさんあると知るのが、まさに学びの面白さなのです。

なにか新しい知識を学ぶということは、自分の人生を「祝祭」にしていくことといえるでしょう。なにかの役に立つというよりも、学ぶ行為自体が楽しく、ときに魂が震えるような瞬間に出会うこともあります。

パンデミックによって、多くの人がものを考えたり自分を見つめたりする機会が増え、わたしは学びの時代に入ってきている雰囲気を感じています。困難な一時期を、自分の人生を祝祭へと変えていく、まさに絶好のタイミングだととらえてもいいのではないでしょうか。

※今コラムは、『人生の武器になる「超」勉強力』(プレジデント社)より抜粋し構成したものです。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 写真/榎本壯三