2024年度(令和6年)より新一万円札の表面(おもてめん)の図柄に抜てきされた渋沢栄一氏(以下、敬称略)。名前は聞いたことがあるけれど、どのような人物か知っていますか?
同氏は、2021年には、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公としても取り上げられる予定の、日本を代表する実業家です。
本記事では、渋沢栄一とはどのような人物かについて略歴や関連会社、人物像を紹介します。新しい一万円札の顔として、また大河ドラマの予習にぜひご一読ください。
渋沢栄一とは
渋沢栄一は、幕末期から昭和初期までの長きにわたり活躍した「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家です。激動の時代を生き抜いたその生涯について、まずはプロフィールと年表で確認しましょう。
プロフィール
渋沢栄一のプロフィールは以下の通りです(※1)。
出身地 : 埼玉県深谷市
生年月日 : 1840年(天保11年)2月13日
没年月日 : 1931年(昭和6年)11月11日
功績 : 大蔵省(現・財務省)で日本経済の基礎作りに貢献、民間実業家として約500の会社設立
愛称 : 日本資本主義の父
信条 : 道徳経済合一説
活躍の軌跡と年表
渋沢栄一の活躍の軌跡を年表形式でまとめました。時系列にどのような活動をしていたのかを整理しましょう(※2)。
西暦(和暦) 満年齢 | 出来事 |
---|---|
1840年(天保11年) 0歳 | 2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれる。 |
1847年(弘化4年) 7歳 | 従兄尾高惇忠から漢籍(※)を学ぶ。 ※漢籍(かんせき) : 中国において著された書籍。日本で著された和書(国書)に対応する分類として用いられる |
1863年(文久3年) 23歳 | 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。 |
1864年(元治元年) 24歳 | 一橋慶喜(※)に仕える。 ※一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ) : 後の徳川幕府第15代将軍徳川慶喜 |
1867年(慶応3年) 27歳 | 徳川昭武とともにフランスへ出立(パリ万博使節団)。 |
1868年(明治元年) 28歳 | 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。 |
1869年(明治2年) 29歳 | 静岡藩に「商法会所」設立。明治政府に仕える。 |
1873年(明治6年) 33歳 | 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。 |
1875年(明治8年) 35歳 | 第一国立銀行頭取。 |
1876年(明治9年) 36歳 | 東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後に院長)。 |
1885年(明治18年) 45歳 | 日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長。 |
1901年(明治34年) 61歳 | 日本女子大学校開校・会計監督(後に校長)。東京・飛鳥山邸を本邸とする。 |
1916年(大正5年) 76歳 | 第一銀行の頭取などを辞職して実業界を引退。 |
1931年(昭和6年) 91歳 | 11月11日永眠。 |
20代は尊王攘夷(そんのうじょうい)派として過激な活動をしかけていた渋沢栄一ですが、計画を中止してから京都に行き、一橋慶喜に仕えるようになってから大きく運が開けてきます。
パリ万博使節団にて長期にわたり欧州の先進国を視察した渋沢栄一が帰国したとき、江戸時代は終わりを告げて明治維新が始まっていました。静岡で日本初の株式会社を立ち上げたのち明治政府に仕えて、大蔵省に入省。4年勤めたのちに民間の実業家として、33歳のときに第一国立銀行を開業します。
76歳で実業界を引退するまでの43年間で、多くの会社設立に関わっています。会社のジャンルは多岐にわたり、そうそうたる企業が顔を揃えます。
渋沢栄一の略歴と人生のハイライト
渋沢栄一の略歴と人生のハイライトについて、時系列で順番に解説します。どのような流れで渋沢栄一が日本資本主義の父と呼ばれるまでになったのか、その流れをぜひ辿ってみてください。
埼玉県深谷市にて農民として生まれる
渋沢栄一は、1840年(天保11年)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。このころは幕末期で学校制度もなく、寺小屋に通っていたという記録もありません(※3)。
6歳から渋沢栄一は、父親から漢籍の素読(そどく)を始め、1年後には隣村に住んでいた従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)の元で『国史略』『日本外史』などの書物を読んで勉学に励んでいました。渋沢少年は好奇心が強く記憶力も抜群で、学習スピードはとても速かったといいます。
尊王攘夷派から幕臣へ
23歳頃、渋沢栄一は尊王攘夷思想の影響を受けて高崎城乗っ取りや横浜の焼き討ちを計画していたそうです。しかし計画は結局中止となり、その後郷里を離れて京都へ。24歳のときに一橋慶喜に仕えることとなりました。
その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍に。そんな中、渋沢栄一は27歳のとき、徳川昭武(徳川慶喜の弟)とともにパリの万国博覧会を見学する機会を得ます。渋沢栄一は長期間欧州に滞在し、欧州諸国の実情について深く見聞きして先進国の実情を学びます。
渋沢栄一は翌年帰国しましたが、海外に行っている間に、日本は明治維新世によって大きく変わっており、元号も慶応から明治となっていました。
日本初の株式会社を設立
渋沢栄一は静岡で謹慎生活を送っている徳川慶喜に会いに行き、静岡藩に仕官する運びに。翌年日本初の株式会社「商法会所」を静岡の地に設立することとなります。商法会所は官民合同で設立し、殖産興業を進めることで、静岡藩の抱える借金を返済する仕組みを作りました(※4)。
商法会所は、公益につながるものに金を融通し新しいものを創造するという「合本主義」の思想から設立した株式会社で、今で言えば銀行のような業務も行っていました。具体的な業務は、現金の貸し付けや預金の受け付け、農業奨励のための米穀や肥料の買い付け、殖産興業のための資金貸与などだったそうです。
明治新政府の官僚から実業家へ
商法会所を設立したのと同じ年、明治政府は渋沢栄一を民部省に迎え入れようとします。しかし、渋沢栄一は断るつもりでいました。彼を説得した人物は、民部大蔵両省で大蔵大輔を務めていた大隈重信(おおくましげのぶ)です。渋沢栄一は辞意を撤回して、民部大蔵両省に仕官することとなりました。
民部大蔵両省の役人として、渋沢栄一は国の近代化に貢献しました。民部大蔵両省への仕官時代には、西郷隆盛の訪問を受けた記録も残っています。西郷隆盛は旧相馬藩の興国安民法の存続を栄一に相談しましたが、栄一はこの相談を断ったそうです。
そんな渋沢栄一でしたが、1873年(明治6年)、33歳のときに大蔵省を辞職して民間実業家として活躍を始めます。日本初となる銀行「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の総監役に就任したのち、1878年(明治11年)5月には東京株式取引所を設立しています(※5)。
その後も、渋沢栄一は精力的に実業界で活躍し、企業の創設・育成に力を入れました。最終的に、渋沢栄一は約500もの企業に関わっていたそうです。
社会事業や教育事業にも力を注ぐ
渋沢栄一の活躍は、実業界だけに留まりません。約600にも上る教育機関 ・社会公共事業の支援や民間外交なども積極的に進めていました。中でも、1874年から50年以上、亡くなるまで関わり続けた「東京養育院」の運営は渋沢栄一に大きな影響を与えたと言われています。
渋沢栄一は、日本が国として発展して豊かになることで、社会的な弱者は少なくなると考えていました。しかし、実際には貧富の格差は広がるばかりで、東京養育院に保護される人が増えてしまいます。
その様子をつぶさに見ていた渋沢栄一は、資本主義はいいことばかりではないことを痛感し、社会公共事業により力を入れるようになりました。
第一線を退いた後は民間外交を実施
76歳で実業界を引退した渋沢栄一ですが、引退前後からは民間外交にも力を注ぎます。1909年(明治42年)には、69歳で渡米実業団を結成して団長を務め、経済界で活躍する民間人とともに3カ月にわたりアメリカのさまざまな機関を訪問し、当時の大統領やトーマス・エジソンとも面会したそうです(※6)。
渡米実業団がアメリカにいたころ、ちょうどアメリカでは日系移民の排斥運動が起こっていました。このことを憂慮した渋沢栄一は、1916年(大正5年)に日米関係の改善を目的とした日米関係委員会を結成します。両国の関係改善に尽力しましたが、残念ながらこの努力は実りませんでした。
渋沢栄一の功績
渋沢栄一の功績がどれほどのものだったかを知るには、彼が設立した会社や教育機関・社会公共事業を見てみるのが一番です。そこで、渋沢栄一が設立した有名な会社や、関わっていた教育機関をピックアップしました。
約500もの会社を立ち上げた実業家としての功績
渋沢栄一が設立した約500もの会社の中でも、現在もなじみ深い会社をいくつかピックアップしました(※7)。
金融 | 日本銀行、日本興業銀行、三井銀行、東京海上火災保険 |
交通・通信 | 日本郵船、日本航空輸送、日本無線電信 |
商工業 | 王子製紙、東京石川島造船所、秩父セメント、渋沢倉庫、理化学研究所、帝国ホテル |
ライフライン | 東京瓦斯(東京ガス)、大阪瓦斯(大阪ガス)、名古屋瓦斯(東邦ガス)、東京電力 |
取引所 | 東京株式取引所、大阪株式取引所 |
いずれも各業種で大きな存在感のある会社ばかりで、あらゆる分野に渋沢栄一が関わっていたことが分かります。特に金融・投資関連では、近代日本を支えた銀行や各種保険会社、株式取引所なども見られます。
約600もの教育機関と社会公共事業の支援
渋沢栄一が支援してきた教育機関や夜会公共事業の一部も紹介します(※8)。
社会公共事業 |
東京市養育院、中央慈善協会、社会事業協会、(財)中央社会事業協会 (社)福田会、(財)東京府慈善協会、(財)東京府社会事業協会、(財)滝乃川学園、愛の家 博愛社、(社)日本赤十字社、(社)東京慈恵会、聖路加国際病院、浅草寺病院、恩賜財団済生会 日本放送協会、東京会議所 日本女子大学、早稲田大学、法政大学、東京商科大学、東京高等工業学校 |
亡くなるまで関わり続けた東京市養育院だけでなく、日本赤十字社や聖路加国際病院、日本放送協会や東京会議所にも関わりがありました。教育機関では、早稲田大学や法政大学、日本女子大学の名前も見つかります。
渋沢栄一の人物像とその教え
ここまで業績面を中心に説明してきましたが、渋沢栄一の人物像やその教えにスポットを当てて紹介します。
道徳経済合一説
これほどまでに会社を多く作ってきた渋沢栄一ですが、財閥は作っていません。同時代に活躍した実業家たちとの大きな違いは、渋沢栄一が幼いころから学んだ論語の道徳観をすべての行動のベースとしている点にあります。
渋沢栄一の提唱している「道徳経済合一説」では、経済の利潤追求は認めつつも、その根幹には道徳が必要だと説いています。経済活動を行う企業は国や人類全体の繁栄に責任を持つ必要があるとする渋沢栄一の思想(※9)は、現代の日本にも通用する普遍的な考え方と言えるでしょう。
若い頃は高崎城乗っ取りを計画するなど過激な一面も
道徳経済合一説を説く渋沢栄一はとても理性的な人のように感じますが、若い頃は血気盛んで尊王攘夷運動に参加し、高崎城の乗っ取りや横浜焼き討ちを計画していました(※10)。尊王攘夷運動の中でもかなり過激な方の計画でしたが、この計画は実行に移されることはありませんでした。
もしこの計画が実行されていたら渋沢栄一は活躍せず、今の日本にはなっていなかったかもしれませんね。
晩年の国際平和運動
実業界を引退した渋沢栄一は、民間外交の一環として国際平和運動にも力を入れました。国際的な相互理解に関する研究や講演活動などを積極的に進めています(※11)。
また、第一次世界大戦後には平和を求める声が高まり、国際連合の前身である国際連盟が設立されました。渋沢栄一はこの動きに呼応して、「日本国際連盟協会」を設立。民間からの国際連盟支援運動を進めます。
渋沢栄一の国際平和運動は高く評価され、ノーベル平和賞に2回ノミネートされています。
渋沢栄一にまつわるエピソード
渋沢栄一にまつわる豆知識的なエピソードも3つほど紹介します。
紙幣の肖像候補になったのに“ひげがないから”落選?
実は、今回新紙幣に肖像画が採用される前にも、渋沢栄一が紙幣の肖像候補になったことがあります。しかし、そのころは偽造紙幣対策のため、より複雑な肖像となる「ひげのある男性」が求められる傾向にありました。そのため、ひげのない渋沢栄一は残念ながら採用されなかったのです。
現代では紙幣の製造技術も進み、ひげのない渋沢栄一も問題なく紙幣に使えると判断されたのか、見事採用されています。新札のお目見えは2024年とまだ先ですが、どのような紙幣になるかが楽しみですね。
サンフランシスコ大地震時の支援と関東大震災
1906年(明治39年)に発生したサンフランシスコ大地震の際、渋沢栄一は頭取をしていた第一銀行から当時のお金で1万円の寄付をしました(※12)。渋沢栄一の行動がきっかけとなり、最終的には当時のお金で17万円が集まり、サンフランシスコに送金できました。
なお、明治時代における1円には現代の2万円ほどの価値があったと言われています。当時の1万円を単純に2万倍すると、2億円となります(※13)。概算ではあり、一概にこの数字が正しいとは言い切れませんが、当時の17万円が非常に大きな額であったことは想像できますね。
活躍する渋沢栄一の子孫たち
渋沢栄一の子孫や遠戚に当たる人たちの中でも、特に名前の知られている方を4人紹介します(※3)。
- 渋沢秀雄(栄一の四男)
東宝の取締役会長、随筆家。『父を偲ぶ』『渋沢栄一』『父渋沢栄一 上・下』など父親の渋沢栄一を取り上げたものが多数あります。 - 渋沢敬三(栄一の孫)
財界、民俗学者でもあるという変わった経歴を持つ。岩崎弥太郎の孫とも結婚しています。 - 大川慶次郎(尾高惇忠の甥、栄一のひ孫)
競馬の解説者となる。競馬中継での予想的中率が高く、「競馬の神様」と呼ばれるようになりました。 - 澁澤龍彦(栄一の遠戚)
作家、評論家。龍彦の家が渋沢家の本流で、栄一の家は支流になるそうです。
渋沢栄一をもっと知りたい人におすすめの作品
渋沢栄一の業績や人となりを知ってもっと知りたいと思った方におすすめしたいドラマや書籍なども紹介します。
2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』
渋沢栄一の生涯が大河ドラマになります。2021年のNHK大河ドラマ第60作『青天を衝け』は、2021年2月14日(日)から放送開始予定です。主演の渋沢栄一役に吉沢亮、徳川慶喜役に草彅剛など豪華キャストで、ロケも順調に進んでいます。
大きな時代の流れにもまれ、何度も挫折を味わいながら多くの実績を残した渋沢栄一。幕末から明治の動乱期を、幕府や明治政府とは別の視点から描く点も目が離せません。渋沢栄一の人生を最初から最後まで知りたい方には見逃せないドラマです。
渋沢栄一の思想を知るなら読みたい本
渋沢栄一の「道徳経済合一説」の考え方をくわしく知りたい場合には『論語と算盤』(著 : 渋沢栄一)がおすすめです。企業の目的が利益の追求であると同時に道徳も必要であり、国や人類全体の繁栄に責任を持つ必要があるという考え方は、今の時代にこそ必要だと感じる人もいるのではないでしょうか。
漫画で新紙幣の肖像になった偉人を知ろう
渋沢栄一の生涯をわかりやすく紹介した漫画もおすすめです。『マンガ&物語で読む偉人伝~渋沢栄一 津田梅子 北里柴三郎~』(編 : 学研プラス)は、新紙幣の肖像画に採用された津田梅子と北里柴三郎、そして渋沢栄一の生涯を漫画と平易な文章で紹介しています。
対象年齢は小学生~中学生ですが、気軽に読める入門書として大人にもおすすめの本です。
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以上、渋沢栄一の人生と人物像、活躍の軌跡について解説しました。すべてを紹介しきれないほど多くの会社を設立し、日本の資本主義の基盤作りに奔走してきた一方で、社会公共事業や民間外交にも力を入れるなど、同氏の活動範囲の広さには目をみはるばかりです。
さまざまな活動をしていた渋沢栄一ですが、その根底には論語をベースとした道徳観があり、その理念には一貫性がありました。現在の日本に暮らしているからこそ、渋沢栄一の生き方から学び取れるものが多くあるのではないでしょうか。
新一万円札の顔となる渋沢栄一の生涯について、興味を持ったらぜひとも書籍やドラマなどで、その人柄に触れてみてください。
あわせて読みたい : 「仕事に活かしたい渋沢栄一の名言 - 「成敗は身に残る糟粕」「士魂商才」」
参照 :
(※1)渋沢栄一記念財団「渋沢栄一略歴」
(※2)渋沢栄一記念財団「渋沢栄一年譜」
(※3)神奈川県立の図書館「日本資本主義の父 渋沢栄一 人物データファイル」
(※4)三井広報委員会「渋沢栄一と三井(後編)」
(※5)日本取引所グループ「株式取引所開設140周年」
(※6)國學院大學「青い目の人形を受け入れた渋沢栄一が考えていたこと」
(※7)渋沢栄一記念財団「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図」
(※8)ニッポンドットコム「渋沢栄一 : 「公益の追求者」の足跡をたどる」
(※9)渋沢栄一記念財団「史料館だより」
(※10)渋沢栄一デジタルミュージアム「渋沢栄一の紹介」
(※11)渋沢栄一デジタルミュージアム「国際平和運動の実践者・渋沢栄一」
(※12)渋沢栄一デジタルミュージアム「大震災と渋沢栄一(情けは人のためならず)」
(※13)man@bow(野村ホールディングス・日本経済新聞社共同運営サイト)「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」