新型コロナウイルス感染症の拡大をはじめ、先が見えない時代のなかで、いま多くの人が「生きること」の理由や意味を求めています。でも、その答えは誰にもわからないかもしれません。なぜなら、脳科学者の中野信子さんによると、脳科学的見地ではあらゆる生物の根本原理は「生き延びようとするためのシステム」であり、「人間はただ生きているだけ」といえるからです。
でも、もし生きる理由がないとしたら、わたしたちはこれからどんな選択をし、どのように生きていけばいいのでしょうか? 正解のない時代の生き方を中野さんに聞きました。
■生きることに理由はない?
「生き延びる」ということの意味を、わたしはもしかしたらほかの人よりも強く感じているのかもしれません。ありとあらゆる生物の根本原理は、「生き延びようとするためのシステム」であるという前提があります。ある一定の見方からすれば、「生きる」ということそのものが、ほとんど宗教のようなものに見えるのではないかと思うほどです。
現在の日本では、日常生活や生き方の基本として信仰や宗教的な規範が根づいているとはややいいにくい状況にあるでしょう。むしろ、規範として機能しているのは、世間の目、もっといえば「同調圧力」ではないでしょうか。いわば「人間関係教」とでもいうべきものが、かなり強力に意思決定を支配しているような状態にあると考えることができます。
そんな国に生まれたというのに、わたしは世間の空気や人間関係というものをあまりよく理解することができない子どもで、「もっとクリアでわかりやすい規範があればいいのに」とずっと思っていました。そんな状況にあって、科学というものは、依拠するに足る、どんな人に対しても平等に開かれた知的でフェアな基準だと思えたのです。
科学は、どんな人にも反論したり、批判したりする権利があり、気が済むまで思うまま検証をすることが許されています。これが従来の宗教的規範とはまったく異なるところです。一般的な宗教においては、いちど信仰を持つと、教義を批判することはほとんど許されません。なぜなら、それが「信仰」というものだからです。あたりまえですが、クリスチャンなのに、「三位一体はおかしい」などということは信仰の基本から外れてしまう行為となるでしょう。
でも、科学にはあらゆる意見や批判が許されています。たとえば、1993年に、子どもにモーツァルトを聴かせると頭が良くなるとする「モーツァルト効果」が発表されました。かつて話題になり、いまだに信じている人もたくさんいる主張です。しかし、6年後には、「それはアーチファクトであり、誤りである」という反論の研究結果が発表されました。いまでは、世界中の研究者がモーツァルト効果を否定する見解を支持しています。
このように、科学には「反証可能性」が担保されているため、とてもフェアな世界であることが前提になっているのです。これこそ、わたしが科学的な考え方に信頼を置く理由になっています。
では、そんな科学的な考え方に依拠してわたしたちの生を見直してみると、いったい人はなんのために生きているのでしょうか? という疑問が出てきます。実は、この問いには答えがないのです。
わたしたちは、ただ生きているだけ——。
生きている理由を探そうと思っても、どこにもないのです。すべての生物が、生存するためにただ生きているということです。
「それでは人間の生きる意味はどうなるの?」 「宗教とちがって科学には救いがないではないか」
そう思われる人もきっといるでしょう。
でも、理由がないということは、「どう捉えてもいい」ということなのです。どんな理由をつくっても、どれも間違いではない。誰も正解だとは保証してくれないけれど、自分ですべてを決めていいのです。
そして、それこそが科学の素晴らしいところだとわたしは思っています。
■正解のない人生を好きなように生きる
とはいえ、なかには、「生きる意味はない」という事実に絶望を抱く人もいるのかもしれません。でも、論理的にはこう考えることが可能です。
「生きる意味が最初から与えられていないのなら、あとから自分でどんな意味づけをすることも許されている」
つまり、「生きる意味は、楽しむことにある」「生まれてきて良かったと、死ぬその瞬間に思うために生きている」など、好きなように決めていいということです。
もちろん、人生にはさまざまな困難がついてまわります。両親や生まれた環境、人間関係などのしがらみに絡め取られて、絶望や虚無感にさいなまれながら生きている人もいるはずです。それでも、本来は自分の人生なのですから自分の好きにしていいのです。まったく自由に生きていいのです。
数学の言葉を借りると、人生の解は「不定」でしょうか。
不定というのは、「無数の解が存在する」という意味です。その無限に存在する解のひとつに、「あなたが選ぶ」という初期条件を与え、あなたがそう決めたのなら、それが正解になるということです。
逆にいえば、あなたではない誰かが、あなたの正解を決めてしまうこともあり得るということ。でも、その状態は決して心地良いものではないはずです。
それを受け入れる生き方もあるかもしれませんが、やはり自分の選んだ答えを正解にしていく人生に大きなよろこびがあるのではないかと、わたしは考えます。そして、そういう生き方をおすすめしたい。
誰だって、「自分なりの幸せを探したい」と思っていますよね。そんなみなさんに、わたしは強くお伝えしたいのです。
「人生には誰かが決めた答えというものはなく、正解はあなたが決めるのだ」と。
■「置かれた場所」で咲く必要はない
生きる意味や人生の答えは自分次第といっても、「現実には社会のルールのなかで生きなければならないじゃないか」という疑念が生じるのではないかと思います。
自由に生きたいのは誰だってその通りでしょう。では、どの程度まで自分の意思を貫き、一方で、どのくらい世間に「迎合」すればいいのか?
バランスをうまく取りながら、楽しく生きていける人も世の中にはたくさんいます。でも、それにはやはり向き不向きがあって、わたしのように、どちらかといえばそうしたことがやや苦手なタイプの人は、バランスを取ろうとするだけで疲弊してしまいます。そんな人は、社会と適切な「距離」を取っていくのもひとつの方法です。
たとえば、日本は規範や社会通念の力を強く感じやすい国だろうと思います。そんな環境で生きづらさを感じるなら、住む場所(国)を変えるという選択肢を持っておくのも有効なソリューションとなるでしょう。
わたしはしばしば、60歳くらいの知人の女性のことを思い出します。彼女は親が離婚して母親に育てられたのですが、そのために、学歴においても差別を受け、さまざまな機会を奪われてきたと嘆いていました。「日本では大学にも行けないし結婚もできない」とずっと思って生きていたそうです。
数十年前の当時は、親が離婚していると入学できない私立大学があったり、結婚が難しくなったりするような時代だったのです。いまの若い人には、ちょっと想像がつかないかもしれませんね。
そんな彼女は、30歳を過ぎてフランスに渡り結婚するのですが、渡仏してから、「わたしはこれまで、いったいなにをしていたのだろう?」と心底思ったといいます。「あんな社会通念に自分の人生を縛られて、本当にバカだった。人生の時間を無駄にした」。そうおっしゃっていたのがとても印象的でした。
いまいる環境が「自分に合わない」と感じたとき、多くの人は自分を変える努力をするでしょう。そのこと自体はとても素晴らしいのですが、「社会のほうがおかしい」ということだって十分にあり得るのです。そう思ったら、まず場所を変えてみることも積極的に考えてみてほしいのです。「何十年も無駄にしてしまった」と後悔する前に——。
もちろんこれは、学校でも職場でも同様です。「つらい」「ひどい」と思ったら、手遅れになる前に、学校や職場を変える自由を自分が持っていることに気づいてほしいのです。もちろん、パートナーから去る行為もここに含みます。とくにDVを受けている人は、なにも考えずに死ぬ前にすぐ逃げてほしい。
戦わず、自分の命を最優先して逃げるというのもまた勇気であり、ちがうかたちの戦いなのです。
以前、『置かれた場所で咲きなさい』という本が話題になりました。その内容に対して意見したいわけでもありませんし、これに励まされた人も多いと思います。でも、わたしははじめてこの書名を目にしたときに、違和感を抱きました。
わたしたちは植物ではありません。 置かれた場所でないところで咲いたっていいのではないでしょうか? わたしたちは、自分の足でどこへでも歩いていけるのですから。
構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム)、辻本圭介 写真/塚原孝顕
※今コラムは、『引き寄せる脳 遠ざける脳——「幸せホルモン」を味方につける3つの法則」』(プレジデント社)より抜粋し構成したものです。