一番いいエンジンを作りたい

ホンダの経営にとって、モータースポーツ活動は切っても切れない関係にある。創業者の本田宗一郎氏が2輪でも4輪でもレース活動に積極的だったし、歴代のホンダトップが本田技術研究所出身の技術屋でもあったので、その伝統が引き継がれている。

「ホンダが一番早く、一番いいエンジンを作るんだ」とは本田宗一郎氏の言葉だが、ホンダのレース参戦は、市販車への技術のフィードバックと技術屋の研さん、そして人材育成が根底にあるのだ。

F1挑戦に当たってホンダが開発した試作車「RA270」と本田宗一郎氏

かつて、本田宗一郎氏の後を受けてホンダの2代目社長となった河島喜好氏からは、2輪車の「マン島TTレース」における苦難の経験を聞いたこともある。その後の歴代社長もモータースポーツ好きで、福井威夫社長は自らF1に参戦したマシンに乗り込み、栃木研究所で走ってみせることもあったほどだ。

鈴鹿サーキットに続く栃木・もてぎはインディ500を意識

ホンダは、レース参戦と共にレース場のサーキット経営にも早くから乗り出している。「鈴鹿サーキット」は1964年に開場。さらに1997年には、栃木に「ツインリンクもてぎ」を整備した。鈴鹿サーキットは、日本の代表的なモータースポーツの場として定着しており、モータースポーツのドライバー育成スクールも運営して日本人ドライバーを輩出している。佐藤琢磨選手も卒業生であることは前述の通りだ。

栃木のツインリンクもてぎは、日本初のオーバルコースを持つサーキットとして建設した。ホンダが1994年から米インディカー・レースにエンジンサプライヤーとして参戦していたこともあり、開場翌年の1998年には、もてぎで「インディジャパン300」が初開催された。

ツインリンクもてぎでの「インディジャパン」は2011年まで続いた(画像はラストレースとなった2011年のスタートシーン)

だが、「レースはホンダのDNA」といえども、経営環境次第では、モータースポーツ活動における投資を控えざるを得なくなる。典型的な例がリーマンショック後のF1からの撤退だ。当時の福井社長は苦渋の決断と言っていたが、それだけF1には莫大な投資が必要ということなのである。

その後、ホンダは2015年にF1再々参戦ということになったが、これも経営好転があったからこその復帰なのだ。一方で、米インディカーにはエンジン供給を続け、現状でインディはホンダとシボレー(GM)のマッチアップとなっている。そんな中で、今回の佐藤琢磨選手の優勝に至ったわけである。