大阪で実業家に転身、次々と企業を設立

明治維新後の五代は主な活動の場を大阪に移すことになります。当初は明治新政府の大幹部となり、大阪の事実上の行政トップに就任しました。当時の大阪は明治維新前後の混乱もあって経済力が低下していたため、五代は大阪港の整備や造幣局の誘致などに取り組みました。

しかし思わぬ転機がやってきました。わずか1年後に横浜への転勤命令が出たのです。この時、大阪では五代留任運動が起きたそうです。いかに大阪の人たちから信頼されていたかがわかります。それも影響したのか、五代はいったん横浜に赴任したものの、すぐに政府を辞めて大阪に戻り実業家に転身しました。

その後、五代は矢継ぎ早に数々の企業を設立していきました。まずスタートさせたのが、金銀分析所という貨幣関連事業です。当時は、明治維新以前に幕府や各藩が発行した貨幣が流通していましたが、品質がバラバラで粗悪品も出回っていました。五代は、近代国家になるには貨幣の品質統一が急務であると考え、貨幣の成分を分析する機関として設立したものです。同分析所ではヨーロッパの冶金技術を使って貨幣の成分分析を行い、不純物を多く含む貨幣は地金にして造幣局に納入しました。

このビジネスは五代がイギリス滞在中に通貨制度や技術を調査研究した成果を生かしたもので、自身が提唱して大阪に設置された造幣局と一体となって、日本の近代貨幣制度の確立と通貨安定に大きく貢献するものとなりました。

五代は同分析所のビジネスで多くの利益を手にすることができ、これを元手に、金銀の分析技術を活用して鉱山経営に乗り出しました。各地の銅山や銀山を買収・開発し、数年間で日本最大の鉱山王となりました。

ビジネスはさらに活版印刷、藍製造、製銅、貿易会社、銀行、海運など、多くの分野に広がっていきます。中でも海運についての事業意欲は並々ならぬものがあったようです。やはり長崎以来の経験がそうさせたのでしょう。

1882年(明治15年)から1884年(同17年)にかけて、共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船など海運会社を次々に設立していきました。このうち共同運輸は3年後に五代があっせんして三菱商会と合併し、日本郵船となって今日に至っています。大阪商船も昭和になってから三井船舶と合併するなどで、現在の商船三井となっています。現在の日本の海運トップ企業2社ともに五代が設立にかかわっていたことになり、五代と「船」の切っても切れない関係が今日までつながっているわけです。

1884年には大阪・難波と堺を結ぶ鉄道会社、阪堺鉄道を設立し、時代の変化に合わせて鉄道業にも進出しました。同社は実質的は日本で初の私鉄となり、その後は南海電気鉄道に事業譲渡され、今日に至っています。

このように五代が設立に関わった企業のうち。現在まで続いている企業が数多くあります。ここに、五代の優れた事業センスと先見性を見ることができます。

大阪経済界のリーダーに

企業だけでなく、五代が大阪経済界のリーダーとして数多くの公的機関を設立したことも忘れてはなりません。堂島米商会所(1876年・明治9年設立)、大阪株式取引(のちの大阪証券取引所、現・大阪取引所=1878年・明治11年)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所=同年)、などを相次いで設立し、大阪商法会議所の初代会頭に就任しました。そして大阪経済の発展のためには人材育成が不可欠として、商学や簿記、英語などを教える大阪商業講習所(現・大阪市立大学)も設立しています。

大阪株式取引所の株主名簿(大阪取引所所蔵)=筆者撮影

これらは、五代が大阪の企業家や豪商たちに「大阪経済の発展のために必要」と呼びかけて実現したものです。現在の大阪取引所が保存している資料を見ると、五代の名前による「設立趣意書」があり、設立当初の株主名簿には五代を先頭に鴻池、三井、住友などの名前が並んでいます。同取引所では、朝ドラの主人公、あさのモデルとなった広岡浅子の夫、広岡信五郎も役員に就任しています。

こうして大阪経済には欠かせない存在となった五代ですが、残念なことに1885年(明治18年)に東京で亡くなりました。49歳でした。ドラマで五代さまが亡くなって「五代ロス」と言われましたが、五代本人が亡くなった際も、大阪で行われた葬儀には数千人もの人が参列し、中之島の五代邸(現在の日銀大阪支店の場所)から阿倍野の墓地まで見送ったそうです。

五代友厚の生涯(明治維新後)