23人のサムライブルーの一員に選ばれた大久保嘉人を奮い立たせた一言とは

誰にでも人生の分岐点が訪れる。ブラジルで開催される「2014 FIFAワールドカップ」に臨むザックジャパンにサプライズ招集されたFW大久保嘉人(川崎フロンターレ)のそれは2012年12月。目標を見失いかけていた男を目覚めさせたのは、夫人の悲痛な叫びだった。

韓国Kリーグでのプレーを望んだ理由

いま振り返ってみれば、自暴自棄になりかけていたのかもしれない。2012年12月末。ヴィッセル神戸から契約延長の意思がないことを告げられた大久保嘉人の視線は、海の向こう側へ向けられていた。

「韓国とか行こうと思っていてね。オファーを待ち続けていたんですよ」。

ヴィッセルがJ2に降格した責任を感じていた大久保は、残留した上でJ1復帰を目指す意思を固めていた。それだけに事実上の戦力外とされたショックは、計り知れないほど大きかった。いくつかのJクラブからオファーは届いていたが、やる気がわいてこなかった。もっとも、韓国のKリーグに対する興味もなかった。当時の心境を、大久保はこう振り返ってくれたことがある。

「意中にしていたチームも特にないです。韓国で一回くらいやってみたいなという気持ちでね」。

韓国の移籍市場においては、外国人選手の獲得案件は最後に回されることが慣例だった。代理人からは「もう少し待てばオファーがあるかもしれない」と言われていた。大久保自身は越年も覚悟していた。

大久保の心に届いた夫人の悲痛な叫び

そのときだった。夫人の莉瑛さんからかけられた言葉を、大久保はいまも忘れていない。 「『絶対にダメ』って言われたんですよ。『いくら隣の国だといっても存在が忘れられちゃうよ、名前なんて出てこないよ』ってね」。

最近の例で言えば、ザックジャパンにも招集されたことのあるMF家長昭博(現大宮アルディージャ)がKリーグの強豪・蔚山現代でプレーしたことがある。2012年2月から約5カ月間、リーガ・エスパニョーラのマジョルカから期限付き移籍で加入した。しかし、ACL(アジア・チャンピオンズリーグ)の試合で来日したときを除けば、新聞紙上などで名前が報じられることはまずなかった。

莉瑛さんの訴えは続いた。大久保が苦笑いしながら振り返る。「『日本代表に復帰する可能性だってまだあるのに終わっちゃうよ、その先はもう引退するしかなくなるよ』とまで言われてね。さすがにそうだよな、って思ったんですよ」。

運命に導かれたフロンターレからのオファー

長く病床に着いていた父親の克博さんからは、「日本代表にもう一回選ばれろ」と何度もげきを飛ばされていた。大久保自身、日の丸への憧憬(しょうけい)の思いを一度も忘れたことはない。それでも、アルベルト・ザッケローニ監督の構想に入っている気配すら感じられない。あるときは電話越しに父子ゲンカを繰り広げた。そのときの大久保の言葉を再現するとこうなる。

「うるせぇ、バカ。オレも入りたいけど、選ばれないんだから仕方がねえじゃねえか。早く死ね! 」。

川崎フロンターレからのオファーが届いたのは、莉瑛さんの言葉で最愛の家族の存在をあらためて思い出し、J1でプレーしようと決意を固めたまさにその直後だった。

2012年シーズンの大久保は、ヴィッセルでわずか4ゴールに終わっていた。チーム事情から中盤を任されることも多く、まず守備を重視するスタイルもあって、持ち味は完全にスポイル(台無しに)されていた。

一方のフロンターレは、前線で軸となるFWを探していた。向島建スカウト担当部長が、大久保に白羽の矢を立てた理由をこう明かしてくれたことがある。

「相手のゴールに近い場所でボールを支配する時間が長く、チャンスも多いチームならば、もっと違う結果を残していたはずなので」。

サポーターが待ち焦がれたサプライズの原点

運命に導かれた出会いと言うべきか。「フロンターレでなら、かつてのストライカーとしての自分自身を取り戻せる」。オファーを受けた翌日には、大久保は代理人を通じてフロンターレへ「お世話になります」と伝えた。

その後の軌跡は、あらためて説明するまでもないだろう。昨シーズンは自己ベストを大きく塗り替える26ゴールをあげて、自身初となる得点王を獲得。今シーズンも絶好調を持続してきた姿は、ザッケローニ監督を振り向かせるのに十分だった。

克博さんの一周忌だった5月12日に、吉報は届いた。2大会連続でのワールドカップ代表入り。父の遺言を成就させたサプライズの原点には、大久保を目覚めさせた莉瑛さんの悲痛な叫びがあった。

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筆者プロフィール : 藤江直人(ふじえ なおと)

日本代表やJリーグなどのサッカーをメインとして、各種スポーツを鋭意取材中のフリーランスのノンフィクションライター。1964年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。スポーツ新聞記者時代は日本リーグ時代からカバーしたサッカーをはじめ、バルセロナ、アトランタの両夏季五輪、米ニューヨーク駐在員としてMLBを中心とするアメリカスポーツを幅広く取材。スポーツ雑誌編集などを経て2007年に独立し、現在に至る。Twitterのアカウントは「@GammoGooGoo」。