「海の警察」たる海上保安庁の仕事というと、密輸・密航といった海上犯罪の捜査や警備、あるいは漫画『海猿』などで知られる海難救助といったものが思い浮かぶかもしれない。しかし、警察の仕事が犯罪捜査だけではないように、海保の任務も多岐にわたっている。そのひとつが、東京湾のような多数の船舶が出入りする海域の交通安全を守るための、航行管制業務だ。

※案外知られていないが、海上保安庁は気象庁と同じく国土交通省(旧運輸省)の外局である。

海には陸上のような道路があるわけではないので、行き先の異なるさまざまな船舶は必ずしも整然と並んで航行しているわけではない。そのため、狭い海域にたくさんの船舶が集中した場合、衝突などの事故が発生する可能性が高まる。このような危険を防止するため、特に通航量の多い東京湾・伊勢湾・瀬戸内海の3海域を対象とした「海上交通安全法」という法律が1972年に制定されており、各航路の通航方法がそれぞれ定められている。

そして、同法の施行を受ける形で1977年、東京湾の入口である横須賀・観音崎に設置されたのが、海上保安庁の「東京湾海上交通センター」(TOKYO Marine Traffic Information Serviceの略で「東京マーチス」とも呼ばれている)で、ここでは東京湾を出入りする船舶に対しての情報提供や、大型船の航行管制を行っている。7月の海の日には、毎年恒例で行われている同センターの一般公開行事が今年も開催された。

海の日、家族連れや若者グループでにぎわう観音崎海水浴場。ここを見下ろす丘の上に東京湾海上交通センターはある

センターまではバス停から10分ほどだが、途中の道は森に囲まれちょっとした山登り気分だ

山を登り切るとそこにセンターがある。現在国内には7カ所に海上交通センターがあり、その中で最初に設置されたのがこの「東京マーチス」だ

4つのレーダー局で東京湾全域をカバー

一般公開では、航行管制が行われているコントロールルームをガラス張りの通路から見学することができる。航行管制とは、たくさんの船が一度に湾内に入ってこないよう、各船舶の入航の順番や時間を調整する作業のことで、航空機で行われている航空管制をイメージすめばわかりやすい。船の位置はレーダーの画面で確認し、乗務員との連絡はVHF無線で取り合う。

航行管制が行われているコントロールルーム

センターの屋上にはレーダーのアンテナが回転しているのを見ることができるが、東京湾全域をカバーするためにはこのアンテナだけでは不十分なので、本牧(横浜)、浦安、そして海ほたるの3カ所にもレーダー局を設置している。計4局のレーダーで得られた情報はコンピューターで合成され、管制卓には1枚の画面として表示される仕組みになっている。

東京湾とその周辺をいくつかのエリアに区切り、それぞれのエリア別に管制官が割り当てられている(この画像は特別に入室して撮影させてもらったもので、一般公開ではこの角度からは見えない)

管制卓には図形と線分で船の位置と針路・速力が表示される

このセンターを含め4つのレーダー局で得た情報を1枚の画面に合成して表示している

センターの屋上と、東京湾内の第二海堡に設置されたビデオカメラを通じてそれぞれ任意の方角を見ることができるが、霧が出ると十分な視界が得られないので、管制はあくまでレーダーを頼りに行われる

センターから海を眺めてみると、房総半島の富津岬を近くに見ることができ、東京湾の入り口は地図上の幅よりもずっと狭く感じられる。しかも、湾内には水深が20mにも満たない場所もあるといい、大型船が通航できる場所はさらに限られている。原油を満載した大型タンカーでは喫水(船体の最下端から水面までの高さ)が20mにおよぶものもあり、決められた航路を少しでも離れると座礁のおそれがある。また、大型船が通航するすぐ横では無数の漁船が操業を行っている。管制業務や、航路を遵守することの重要性がよくわかる。

一般公開日はセンターの屋上も開放されている。すぐ向こう岸には富津岬とその背後にある木更津の工場地帯が見える

大きな船の近くで無数の漁船が操業しており、航路が混雑している。それでもまだ昼間は空いているほうで、朝5~6時は入湾、夕方17~18時は出湾の船でラッシュになる

この海図で水色に塗られている場所は水深がわずか10m以下。大型船が通航できる場所は見た目以上に狭い。長さ50m以上の船は、中央に赤く囲まれた航路の中を通ることが義務づけられている

東京湾には毎日600隻以上の船舶が出入りするが、中には航路を外れて浅瀬に向かってしまう船や、決められた航行方法に従わない船もある。特に日本の海の事情に慣れていない外国船では、最新の航行ルールを把握していないケースもある。このような場合には正しい航路に戻るよう管制官が無線で呼びかけるわけだが、入出湾時は船上も何かと忙しく、呼びかけに気付かない場合もある。このようなときには、最寄りの巡視艇が当該船舶のもとへ直接向かって警告することになる。

近年は船舶の自動識別装置も導入

航行管理を支援するため、2004年から新たに導入されたのが「AIS」(Automatic Identification System:自動船舶識別装置)である。国際航海するすべての旅客船、総トン数300トン以上の国際航海する船舶、総トン数500トン以上の内航船に搭載が義務づけられている装置で、自船の船名、現在地、目的の港などを自動的に通知するものだ。テロや海賊行為の発生を背景に、近年世界的に導入の動きが強くなっている。

船の位置や移動方向はレーダー画面に表示されるマークで知ることができるが、そのマークがどの船のものかであるかは、船舶が管制官に「いま自分の船はどこどこにいます」と伝えるまでわからない。しかしAISを搭載した船なら、そのような位置通報を受けなくとも画面上で船舶を判別することができる。さらに、レーダーが有効なエリアは東京湾周辺に限られるのに対し、AISはほぼ日本全国を取り囲むように陸上局が設置されているので、早い段階から入航時刻の調整などを行えるほか、デジタル方式で情報をやりとりするため、注意喚起のメッセージや気象情報などを文字で送信することも可能となっている。

AISを搭載した船は画面上で船名や位置などを確認できるほか、文字情報の送受信も可能。最近導入されたシステムで、運用卓はパソコンそのものだ

また、センターにはラジオ局も設けられており、毎時00分と30分に日本語、毎時15分に英語で、そのときの船舶の集中状況や、周辺海域の気象情報などを提供している。周波数が日本語は1665kHz、英語が2019kHzのため通常のAMラジオでは聞けないが、アマチュア無線機や短波ラジオの一部機種を利用すれば受信することは可能。そのほか、FAXやWebサイトでも情報提供を行っており、プロに限らずマリンレジャー愛好家などにも広く利用されているという。

航行に必要な情報をラジオ放送でも提供している

東京湾の交通は首都機能を左右する

冒頭で、センターが開設されたのは1977年と紹介したが、「意外に最近のことだな」という印象を持った人もいるのではないだろうか。それ以前にはこのような本格的な航行管制は行われておらず、実際に湾内では事故が多発していた。中でも悲惨だったのが1974年に起きたタンカー「第十雄洋丸」の衝突・炎上事故で、ぶつかった貨物船とあわせて乗員28名が死亡する大事故となった。LPガスやナフサを満載したタンカーの火災は鎮火することができず、第十雄洋丸は激しく炎上したまま外洋へえい航され、最後は海上自衛隊による砲撃で撃沈という結末を迎えた。

大需要地である首都圏が背後に控える東京湾の海上交通は、航行する船舶の数もさることながら、大型船の割合が高いことが特徴だ。それだけに事故が起きた場合の影響は大きく、前述の例のように大きな人的被害が出ることに加え、東京・川崎・横浜の各港への物流がストップしてしまうので、事故処理が長期化すると首都機能がマヒすることにもなりかねない。

自動車のドライバーの中には、運転中に交通違反の取り締まりをしている警察官を見ると、なんとなく面倒な気分になるという人もいるだろう。海上交通でも同じような面はあり、平たく言えば、センターによる航行管制を「煙たい」ものと思う船も一部にはあるようだ。海の世界においては歴史的に「航行の自由」が原則でもあり、一種の文化でもあるのでなおさらだ。

しかし、現実には事故は発生する。航行管制について懐疑的だった海事関係者も、センターを訪れて多くの船舶で混雑するレーダー画面を目にし、説明を受けると、その必要性を正しく認識してくれるという。管制の導入から30年以上が経過し、最近ではインターネットなどで広く情報提供行っていることもあり、昔に比べると同センターの認知はかなり広がっているようだ。

観閲式の模様を撮影した写真の展示なども行われていた

同センターでは、首都圏を支えるインフラのひとつとしてセンターがどんな仕事をしているかより広く知ってほしいとしており、今後もこの一般公開行事を継続していく方針。次回の公開は11月3日の文化の日を予定している。