駄菓子屋の軒先で夢中になったゲーム機が!

セピアがかったゲーム機がずらり。さほど大きなスペースではないが、ざっと30台ほどもあるだろうか。おや、これは『新幹線ゲーム』ではないか。米原が最初の難関だったよなぁ。うおお、こっちには『国盗り合戦』が。坊主に悪態をつきまくったぜ。むむ、『フィーバーチャンス』の製造元ってカプコンだったのか。ここからバイオハザードに進化するとは……。ほかにも見たことのあるゲームだらけだ。

ところ狭しと並ぶ駄菓子屋ゲーム。37歳の筆者は「懐かしさ」でいっぱいである

思わずポケットに小銭をまさぐる。いやはや、手動式の100円玉両替機まで残っているとは思わなかった。早速、プレイするぞっ、と勢い込んだら「どうですか、アラフォー世代なら懐かしいでしょう」との声がかかる。

味のある手動両替機「ケンさん」。10円玉が一気にはき出されるアナクロ感がまたいいわけで

駄菓子屋ゲームを求めて日本中を駆け巡る

駄菓子屋ゲーム博物館の館長、岸昭仁さん

おっとと、まずは取材が先であった。我々を迎えてくれたのは岸昭仁さん。博物館の館長であり、こちらに並べられたすべての駄菓子屋ゲームの所有者である。当年とって39歳。筆者と同世代だ。それにしてもビデオゲームの基盤コレクターは多いが、この手のゲーム集めているとは奇特なお人。なにゆえ、コレクションを始めたのだろうか。

伺うと「最初の一台は10歳の頃。ある日、近所で放置されていたのを見つけたんです。こちらの『FOOTBALL』という機械ですね。こうしたゲーム機で遊ぶのが好きで、交渉したら持ってっていいよと言われたので引き取って。同じように5、6台ほど集めたんです。

大人になってから駄菓子屋ゲームを集めたのかと思いきや、すでに10歳のときに『FOOTBALL』を手に入れたのだとか

大人になってからは押し入れにしまっていたのですが、ふと7、8年くらい前に街中に駄菓子屋がないことに気づいた。あのゲームはどうなっちゃったのか。あんなに楽しませてくれた機械が、失われるのはしのびないなぁ。そう感じて再び収集活動を始めたんです」という。

しかし、さすがに古い機械だ。駄菓子屋も姿を消している。集めるのは大変であったらしい。探す方法はほとんど足。地図で古そうな商店街を目をつけては自転車でのローラー作戦を繰り返した。ネットで知り合った人に声をかけて情報を貰って交渉をしに行ったり、遠方では山口県や山形県から送ってもらったものもあるのだとか。そうして集まったゲーム機は現在50台。そのうち30台をローテーションしながら、こちらに置いている。驚くのはすべてが稼働していることだろう。

取材とはわかっているのだが、ついついゲームに熱中してしまう筆者。子供の頃、なんども繰り返し遊んだ「国盗り合戦」では、未経験者の編集者にあっさりクリアされてしまう

話をしている間にも子どもたちが訪れ、パチンコを弾く音や電子音が鳴り続ける。駄菓子屋の軒先にあっただけに風雨にさらされ、入手時には壊れていたものも多かった。だが「1台で50~100時間」ほど膨大な時間を費やし、岸さん自らレストアしたのである。実に大変な作業。それなのに「ゲームのアイデアとか構造とか、本当に当時の"made in Japan"と言いますか、高い技術が使われている。まさに産業遺産ですよ。将来、文化財として認められたときに、現物がなくて困らないように。なるべく元の状態を損なわないように直している。でも、そう思っているのは今は私くらいですけどね」と岸さんは笑う。