「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」展は、5人の学芸員が企画したちょっと変った展覧会である。国立近代美術館ならびに京都、大阪の国立美術館のコレクションを活用しながら、従来の歴史の流れをたどる展示とは違う切り口でどんなことができるのか、同時に現代美術の面白さをどう伝えていくのか。こうしたことを出発点として企画された。

解説する大谷省吾氏

全体は8つの章から構成されており、「わたしいまめまいしたわ」という奇妙なタイトルがついている。これは「わたし」という誰もが関心のある分かりやすいテーマを扱いながら、単純な「わたし」探しではなくそれを乗り越えたところ何があるのか、お互いに議論しながら進めていくうちにでき上がった企画である。なお、カタログ、チラシ、ポスター、フロアプランなど、印刷物は服部一成氏のデザインによるもの。これも新しい試みとなっている。そこで今回は、報道向けに企画されたギャラリーツアーの内容をもとに、同展の見どころを各章ごとにお伝えする。

第1章「わたしはひとりではない」は、本当の自分など果たしてあるのだろうか、本当の自分はもしかするとたくさんの自分が束になってできているのではないか、ということ示す展示となっている。テーマとしたのは自画像。豊富なコレクションの中から梅原龍三郎、岸田劉生、中村彝(つね)、藤田嗣治など、近代の葛藤の中で自分自身を探すために自画像を描いた人たちの作品だが、いずれも描いているうちに自分が分からなくなってくるようにもみえる作品でもある。つまり自画像とは、そもそも自分をわかるために描くが、描いているうちに自分を見失っていくというプロセスが見える作品ととらえている。ゲオルク・バゼリッツは、自画像を逆さまにすることで自分が見慣れない変なものに見えてくる作品であるし、澤田知子は、髪型、化粧などをさまざまに変えた400種類の自分を証明写真のブースで撮影し、自分が400通りに分裂するさまを記録している。ノーメイクでスキンヘッドにし、服も着ていないありのままの自分も撮影したが「これが本当に澤田知子なのか」という疑問が私たちの中に湧いてくる作品となっている。

澤田知子 ID400(1998)

第2章「アイデンティティの根拠」は同一性という問題を何らかの形で扱ったものを展示している。自己同一性は自己の存在証明であると言われるが、電報を使った河原温の「I am still alive」(1981)では、電報が遅れをもって読まれることにより、「I am still alive」という電報が届いた時点では送り主が生きているかどうか不確定となる。また河原温自身、メディアやレセプションなどに一切出ず、ひたすら自己を消去するということを行ってきた。「I am still alive」の「I」と、それが指す河原温の結びつきが不安定になっている。この作品を手始めに高松次郎の「単体」シリーズ、岡崎乾二郎、村上友晴の作品など同一性と差異を扱ったものを展示することで、「わたし」というものに立ち返るとしている。

高松次郎 木の単体(1971)

第3章「暗い部屋と『わたし』」は山中信夫の「ピンホール・ルーム」を暗い個室の中に展示し、まさに彼がやったであろう状況の中で見せている。山中信夫は自分の部屋の窓を塞いで目張りをし、自室をカメラ・オブスクーラとして、自分が見慣れた外の景色を倒立像として得た。暗い部屋は自分の内面と対話を始め自己を養う空間となる一方で、カメラ・オブスクーラとなって飛躍し外の景色を倒立像として映す。見慣れた景色が倒立像となり、見慣れないものとして異化されるが、注目したいのは下に山中自身の正立像が影として写り込んでいること。山中の身体が影としてこの作品に刻まれ、その山中の身体を軸に世界がぐるっと反転し、新たな驚きを持って立ち上がってくるように見える。山中はこのピンホール・ルームで何をしようとしたのか。「わたし」と「世界」と「写真(カメラ・オブスクーラ=暗い部屋)」の関係を映し出そうとしたのではないか。そう思えてならない。

山中信夫 ピンホールルーム1(1973)

第4章「揺らぐ身体」では鑑賞者自身が作品の中に入ること、あるいは作品を見て「めまい」を体感することを意図して展示作品が選ばれている。ブリジット・ライリー、日高理恵子、金明淑、草間彌生と偶然ながら女性の作品ばかりとなった。これは「まなざし」というものは決してニュートラルなものではなく、さまざまな欲望や願いが潜んでいることを彼女たちが知っていたからではないだろうか。日高理恵子、金明淑は具象的。ライリー、草間は抽象的な作品だが、ライリーの「讃歌」、草間の「天上よりの啓示」というタイトルは、何かを参照する感覚的なもの、あるいは理想的なものに向かうものとなっている。

第5章「スフィンクスの問いかけ」は「めまい」によって感覚を研ぎすました後、スフィンクスにまなざしを受けてほしいという想いからフランシス・ベーコン、船越桂の2作品が展示されている。この作品の共通点は乳房があるスフィンクスであること。そして一見して両性具有的な存在であるという外見に加え、そのまなざしに射抜かれるためにはまなざしにあわせて体を動かす必要があることだ。ギリシャ神話ではスフィンクスのかけた謎をオイディプスが解いてスフィンクスは自殺するが、この展示では解いてしまったことが本当に正しかったのかどうかという謎掛けを行っている。

「スフィンクスの問いかけ」のコーナー

第6章「冥界との対話」のテーマは「死」である。第3章の中で、考える主体としての「わたし」、あるいは身体的な存在としての「わたし」が生成していく場面を意識させたが、ここでは「わたし」の生成が途絶えてしまう「死」という普遍的なテーマで展示を構成している。ビル・ヴィオラの「追憶の五重奏」は、超スローモーションによる5人の登場人物が悲嘆の表情を浮かべている映像だ。他者の喪失を悲しんでいる場面だが、見ているわれわれは死者の側に立つようにも見えるし、他者の喪失を悲しむ側に立つようにも見える。「死」というテーマを通して「わたし」が他者との関連のなかで存在することが見えてくる。また「死」というテーマを意識させながら、ビオラの作品を相対化するために、斎藤真一、ドイツの版画家ペヒシュタインとメキシコを撮ったポール・ストランドなどを並べた。「死」というテーマは普遍的ではあるが、一方で個別の文化によってそれぞれに解決がはかられたテーマでもある。これらの作品を比較することによって哀悼の表現が文化の相違という視点で見えてくる。

ビル・ビオラ 追憶の五重奏(2000)

マックス・ペヒシュタイン(上)とポール・ストランド(下)の作品

第7章「SELF AND OTHERS」は、牛腸(ごちょう)茂雄の残した連作「SELF AND OTHERS」全60点をまとめて展示したものである。なぜひとりの作家の作品だけを展示しているのかというと「自分と自分以外の人が一体どういう関係の中でお互いを感じているのか」を探るこの展覧会にピッタリだからである。順に見ていくと牛腸茂雄が1~60点までどういうストーリーがあって並べていったのかが、追体験するようによく分かる。写真はすべて横長、真ん中に人物がいて視線を写真家に向けている。美術、美術家が人や物、風景を見る行為によるものだが、この写真集では60通りのいろいろな人たちが牛腸茂雄をどんな風に見ているのかを記録していったものに見える。それをいま鑑賞する私たちは「自分たちがどう見れらているのか」「自分が思っているのと違う人であることを見抜くようなまなざしで見られているのではないか」と感じ、不安になってくる。

牛腸茂雄 SELF AND OTHERS (1977)

第8章「『社会と向き合うわたし』を見つめるわたし」では、「わたし」をめぐるさまざまなアプローチの末、ふたたび作者自身が出てくる作品を展示している。しかしながら、はじめの自画像とはかなり違う形の作者の姿が感じられる。郭徳俊(かくとくしゅん)の作品は歴代の大統領と作者本人をつなぎ合わせ、世界的に知られたアメリカ大統領と今ここにいる自分自身を強引に結びつけることで、メディア上の存在と自分自身との関係について面白い視点を見せている。一方高嶺格(たかみねただす)の作品「God Bless America」では、ブッシュ大統領の顔を作ったり、壊したりするバックに「God Bless America」の歌が流れるが、次第にこの声の主体がどこかわからなくなってくる。自分自身を生々しくさらけ出し、さらにそれを別の視点から客観的に見ることで、イデオロギーに懐柔されない視点が浮かび上がってくる。ここでは社会と関わることを別の視点、一歩引いたところから観察してみたらどうなるか。そのような二重の自分というものがある作品を展示している。

キムスージャ ラゴス・ロンドン(2000-01)

郭徳俊の作品、向こう側には秋山裕徳太子のポスター

「わたし」があいまいになって不安なとき、集団に寄り添ったり、特定のイデオロギーに寄ってしまえば気が楽になる。しかし美術はむしろイデオロギーを揺さぶり、集団的な大多数の考え方とは違うものを鮮やかに見せてくれるものではないか。そんなことを考えさせられる展覧会となっている。

「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」展の会期は3月9日まで。開館時間は10時~17時、金曜日は10時~20時(入館は閉館30分前まで)。休館日は月曜日(2月11日は開館し、翌12日は休館)。観覧料は一般420円、大学生130円、高校生70円。