――そういったテレビの放送と並行して、他方で印刷媒体があり、そこで大きな役割を果たされたのが、大伴昌司さんですね。

「ですね。怪獣図鑑にも、マガジンの特集にも、ほかの雑誌にも、脇に必ず大伴昌司さんのお名前が書いてあって、幼稚園から小学校に上がる頃には、もう憶えちゃいましたね。子ども心にも、円谷英二さんのお名前とともに。『なんか知らんけど、この円谷英二さんと大伴昌司さんていう人たちが、怪獣をオレたちに届けてくれるんだぞ』という」

――怪獣への憧れとともに、大伴昌司さんへの憧れも……。

「『大伴昌司さんて、どんな人なんだろう』という憧れは、ずっとありましたね。怪獣に対する興味や憧れもありましたけど、『それを創っている円谷英二なり、大伴昌司なりっていう人たちが、どういう人たちなんだろう』というね」

――やはり、そういった記事を読むのに熱中されましたか?

「『図鑑子ども』でしたね。友だちが怪獣のソフビとか持って、こう砂場で遊ぶじゃないですか。そうやって自分の怪獣愛を表現するのかもしれませんけれども、僕はそれやらなかったんですね。それやってる暇に、自分で怪獣図鑑作ってましたね」

――ご自分で怪獣図鑑をお作りになったんですか?

「実家が薬局だったもので、その景品のボールペンと大学ノートがいっぱいあったんですよ。それを使って、ウルトラ怪獣と自分勝手に考えたオリジナル怪獣をごっちゃにした『自分怪獣図鑑』を盛んに描いてました。ですから『気分は、大伴昌司』(笑)」

――そういった記事をお手本になさったわけですね。

「ええ。『怪獣図鑑は、こうじゃなきゃイカンだろ』みたいな(笑)。『大伴昌司なら、こうやるぜ』みたいな(笑)。もちろん、図鑑だからデータも書き込んで。弱点はこうだ、武器はこうだ、どこから生まれた、みたいなね。バルタン星人にツノ付けたようなヘンテコな宇宙人とか、描くわけですよ(笑)」

――その頃から、絵を描かれていたわけですね。

「あと、そこからもう一歩進んで、怪獣の出てくるマンガですね。これまたボールペンで大学ノートに(笑)。ほかにもチラシの裏にですね。とにかく数描いてましたから。怪獣という文化がなければ、そういうので描きまくってなければ、今マンガ家という商売はやってなかったろうと思いますね」

――当時の大人にとって、怪獣はゲテモノでしかなかったわけですけれども、今、大伴さんの業績をあらためて評価するとしたら、どうなるとお考えですか?

「世間的には、大伴昌司さんの評価って、まだまだほんの一部だけで、ほとんどなされてないと思うんですね。大伴昌司さんを特集した本が何冊が出版されましたが、あれはまだ第一歩、という感じで。『少年マガジン』なり怪獣図鑑なりで育った大伴昌司の子どもたち、今の大人たちが、まだまだいっぱいいると思うんですよ。そういう人たちがもっと語らなくちゃいけないものだと思います。あのすばらしい怪獣の内部図解とか」

――今あらためて振り返ってみて、ご自身が影響を受けているとしたら、どんな点でしょう?

「もう、丸ごとですね(笑)。怪獣なんてナンセンスの極みのようなモノを大マジメに、いろんな切り口から見ることですね。内部図解したり、科学特捜隊員の一日はどんな生活だとか、基地の内部はこういうふうになってるみたいな。そういうものの見方を教えてもらいました(笑)。うまく言えないんですけれども、今描いてるギャグマンガにしても、そういういろんな角度から見るということが、実はつながってるんじゃないかと」