5月5日、東京ビッグサイトで行われた自主制作漫画誌展示即売会「コミティア80」において、公開トークライブ「評論家としての米沢嘉博を語る」が行われた。このイベントは2006年10月1日に53歳の若さで逝去した前コミックマーケット代表、米沢嘉博氏の功績を偲んで、知己の評論家や担当編集者らが登壇したもの。
コミケ代表としての側面にクローズアップされることの多い米沢氏だが、マンガ評論家・サブカルチャー評論家としても数多くの著書を遺している。今回のトークライブではそうした執筆活動の面が中心に語られ、改めて米沢氏がマンガ業界、出版業界に遺した業績が大きかったことをうかがわせた。今後も絶筆となった連載の単行本化が控えているという。
記事ではパネリストの発言をごく一部ながら紹介しておきたい。
<第1部「マンガ評論家としての米沢嘉博氏を語る」より>■村上知彦氏(マンガ評論家)
「生き物としてマンガを見ているところがあって、作品や作家よりもダイナミズムそのものを語っていた。米沢君しかできない仕事も多かった。『こういうものをいま出すのが重要ですよ』と、ちゃんと出版社を説得できる、マンガ復刻を働きかける力も大きかった。評論をやりながらマンガ界のスポークスマンを全部やっていたのだと改めて感じる」
■呉智英氏(評論家)
「自宅以外に家を一軒借りて資料を置いているような人で、それもただ集めているだけではなくて、貸本時代の細かいものまでよく読んでいた。追悼のコメントには『日本で一番マンガを読んでるのは米沢君である』と何度も寄せた。ポピュラーカルチャーへの信頼感を持ち、世に出ているものについては全部認めようというスタンスだった」
■藤本由香里氏(評論家)
「米沢さんとは同郷で、貸本屋が盛んだった熊本という土地柄が影響していると思う。米沢さんの一番大きい力はマンガ研究の基底を作る力があったということ。こういう仕事は地味だが、絶対に必要。しかもただ集めるだけではなくて、どういうふうにすれば一番わかりやすいのか、という取り出し方も熟知していた」
■みなもと太郎氏(マンガ家)
「彼にさえ聞けばマンガのことはなんでもわかる、という人物が亡くなってしまった。コミケ代表としての仕事は大きいが、そのバックアップや側面を援護することまで自分でやっていたと思う。問題に対しても真正面からぶつかるのではなく、受け流し方がうまかった。彼独特の困った笑顔は『この相手にどう言えばわかるかな?』ということを常に考えていた表れではないか」
■唐沢俊一氏(評論家)
「古本市で会う仲で、買っている本は本当に種々雑多だった。許容範囲が広すぎて、語る際には逆に茫漠としてしまうのではないか。笑顔が印象的だが、クールさやミステリアスな面も持った人物だと思う。作品を作る人はいるが、場を作れる人は稀有。場を作って長持ちさせた才能のモデルとして語り継ぐべき。作品を作り出す人の情熱が好きだったのかなという気がする。膨大なコレクションの目録もまとめてほしい」
■浅川満寛氏(青林工藝舎『アックス』担当)
「メインストリームから外れたものに対する愛情があり、藤子不二雄もエロマンガも同列に扱えるのは米沢さんしかいなかった。記憶力についても大変なものがあり、マイナーなマンガ家の出自まで把握していた。あれだけの情熱なら、書くものにも熱い部分が出るはずだが、それは一切なくフラットな書き手で『こう読むべき』という主張もなかった。書き出せばスピードは速かったが、クセのある手書きなので字を読むのは大変(笑)」
■伊藤靖氏(河出書房新社 単行本担当)
「米沢さんの書くものは評論というより、自分のフィルターを通して大きな物語を紡ぐ作業だったのではないか。その熱量と同時に『ここまでの知識を書いてもわかってくれる人がいるだろうか。でも書かずにはいられない』というある種の諦念もあったように思う。マンガをベースにあらゆるジャンルが収まっているコミケは、米沢さんの頭そのもの。本当に自伝を読みたかった人物」
■野口ひろ子氏(元・平凡社『別冊太陽』担当)
「コミケという場を悪く言えば利用して本を作らないのか、と言ったことがある。『君臨したり、上に立って組織したくない。それがなくなったときはコミケもやれなくなるだろうし、評論家としてもやっていけなくなる』という答えだった。その言葉に米沢さんの大きさや優しさが凝縮していると思う。『発禁本』も本を通して人を愛する米沢さんの思いがなければ、コレクターからの提供は実現しなかった」
■米沢英子氏(米沢嘉博氏夫人)
「コミ結婚と言われているが、マンガ評論集団の場での出会いがきっかけだった。目に触れるものは全部読みたいという人で、立っただけで家のなかが図書館状態。買った本が何箱も着払いで家に送られてきて『これはなんだ』ということもあった(笑)。原稿は布団で寝ながら書いていて、入院中は娘に口述筆記をさせていた」