畑と化した、在日米軍相模総合補給廠引込線

今回も廃線を巡る旅。まずは、在日米軍相模総合補給廠引込線。神奈川・相模原には、旧日本陸軍「相模陸軍造兵廠」を接収した在日米軍相模総合補給廠がある。JR横浜線の淵野辺駅と矢部駅周辺には、この在日米軍相模総合補給廠への引込線の片鱗が残っている。

青山学院相模原キャンパスや桜美林大学の最寄り駅であるJR淵野辺駅、まずはここで下車しよう。町田方面行きの線路の隣に、錆び付いた一本の線路がある。これは、隣の矢部駅を経て、米軍相模総合補給廠に続いていた側線である。

淵野辺駅の米軍相模総合補給廠に続いていた側線

淵野辺駅と矢部駅間に埋もれていた側線跡

淵野辺駅北口を降りて矢部駅方向に歩いていこう。淵野辺駅では側線ははっきりと残っていたが、駅周辺は再開発が行われているため、駅を離れるとすぐに側線はなくなってしまう。しかし、草むらに埋もれながら、或いは、花壇の一部と化しながら、その亡がらがまだ残っていた。

米軍相模総合補給廠のフェンス外の道路に、踏切跡が残る

矢部駅北口の自転車駐輪場のすぐ奥が、もう在日米軍相模総合補給廠である。不審がる駐輪場のおっちゃんの目をかいくぐり、補給廠のフェンス沿いの道路を歩いて行くと、道路に鉄路の跡が残っている。これが、引込線の踏切の跡である。さすがに、こんなところで一眼レフカメラを取り出して撮影していたら通報されそうなので、携帯で撮影する。引込線はこの道路を横切り、基地奥にさらに続いていたようである。現在、この踏切跡の先には上矢部団地と保育園が建てられており、線路の跡はない。いろいろ調べたところ、1999年頃までは線路がまだ残っていたようではあるが。

ここでいったん、矢部駅の方に戻り、大通りを北に向かう。すると、麻布大学近辺で、道路に沿って連なる細長い農園を発見する。よく見ると、農園というより花壇である。そこには、小石が敷き詰められて、赤さびた線路が見える。そう! 在日米軍相模総合補給廠引込線の跡である。線路は持ち去られることなく、そのままうずめられてしまったようだ。花壇の先はまた在日米軍相模総合補給廠の敷地に戻り、線路も再び在日米軍相模総合補給廠に入っていた。現状では、線路は途切れていたが、フェンスの向こうにはプラットフォームのようなものが見えている。

矢部駅近くの踏切には、いわば花壇化した側線跡が

横浜線矢部駅。駐輪場の隣がもう米軍相模総合補給廠

在日米軍相模総合補給廠引込線は細長い農園、または花壇になってしまっている。ただし、バラストを取り除くのは面倒だったのか、バラストだけが残っている

線路跡の先はまた在日米軍相模総合補給廠

架線垂れ下がる、旧日本専売公社小田原工場専用線

ロマンスカーは赤がいいよね。足柄駅を通過するロマンスカー

もっと廃線跡のシュールな様子を望むなら、旧日本専売公社小田原工場専用線の跡を訪ねてみるのはどうだろうか。場所は小田急線小田原駅の1つ新宿寄りの駅、足柄駅周辺である(注: 御殿場線の足柄駅ではなく、小田急線の足柄駅である)。

足柄駅北側に留置線があり、いくつかの車両が留まっていた。その一番西側の留置線に面して、木製の架線柱が並んでいる。これが旧日本専売公社小田原工場専用線の跡である。足柄駅の留置線から、近くの日本専売公社小田原工場まで専用線が出ていたが、1984年に廃止され、すでに25年の月日が経っている。

留置線に面して、木製の架線柱が並んでいる

架線がこんなに垂れ下がっていいのですか?

駅の改札口を降りて右折し、小田原方面に歩いていく。踏切を西側に渡り、しばらく小路を行って右手を見ると、架線柱の行列が目に入る。旧日本専売公社小田原工場専用線の敷地は、地元の人の通行に使われているようで、自由に入っていける。線路は取られてしまい、所々枕木が地面から現れているだけだが、架線柱と架線が残っている。まさに「昭和」の風景である。ある架線は架線柱からかなり下に下がって、廃墟っぽくなっている。

枕木がひょっこり現れる

ふらふらと、専用線跡を歩き写真を撮ったあと、元の位置に戻る。その先は、「久野緑の小径」と名前がつけられて、整備された小路となっている。小路の脇は、民家や庭。専用線は軒先を通っていたのかとふと感慨にふけった。

廃線跡は地元の人の通り道

橙色の花と架線