館内は所狭しと牛乳に関する貴重品が並ぶ

誰もが一度は必ず飲んだことがある牛乳。日本の学校の給食では現在、ほぼ毎日のように牛乳が配膳される。だが、そんな学校給食における牛乳が、戦後にアメリカやユニセフの支援による、脱脂粉乳を溶かしたミルクからスタートしたことはあまり知られていない。今回は、私たちが日常で当たり前のように消費する牛乳にまつわる、知られざる歴史や文化を学べる「牛乳博物館」を紹介する。

牛乳メーカーが酪農文化に関する貴重品を約5,000点展示

都心からJR新宿湘南ラインでおよそ1時間のJR古河駅。駅から車で10分ほどすると、約5万3,000平方メートルに及ぶ広大な敷地に工場を構える「トモヱ乳業株式会社」の姿が見えてくる。

その1階に、牛乳博物館はある。1994年に開設した500平方メートルほどの博物館には、同社の代表取締役・中田俊男氏が50年かけて世界約150か国から集めた、酪農文化に関する貴重な資料や収集品が、約5,000点も展示されている。

なぜ、一牛乳メーカーである同社が、牛乳博物館を設立したのか。同社総務部・増田智彦さんは説明する。

「弊社が牛乳専業メーカーとしてスタートした1956年(昭和31年)当時、中田代表は『もっと乳業を好きになりたい』という一心で、世界中から酪農に関する物を収集しました。そして、酪農文化と牛乳文化を広く社会に紹介したいとの思いから、牛乳博物館を設立しました」

今では、国内だけでなく、海外からの来館者も目立つという。

社内入り口では、同社の製品と本物のプロペラ機がお出迎え

酪農が国内で始まったのは江戸時代、当初は薬用として飲まれていた

牛乳文化が日本で始まったのは、7世紀半ばごろとされている。当時は貴族などの一部富裕層にしか飲まれておらず、仏教の肉食禁止思想の影響で長らくの間、文化としての牛乳は世間に定着しなかった。

江戸時代に入り、8代将軍徳川吉宗がインド産白牛雌雄3頭を輸入し、千葉の嶺岡牧場で繁殖させたいう記述が書物に残されている。これが近代酪農の始まりとされているが、当時牛乳は医療や薬用という意味合いで飲まれており、一般的ではなかった。

明治時代になり、欧米(おうべい)文化とともに西洋人が日本に入ってくるようになると、廉価で栄養価の高い牛乳の存在価値が見直され始めた。牛乳ニーズをいち早く見越した前田留吉が、オランダ人・スネルの下で搾乳技術を学び牛乳販売を始めたことや、明治天皇が一日に2度飲用していることが「新聞雑誌」に報じられたこともあり、牛乳は少しずつ民衆文化に浸透していった。それでも、当時はまだ高価で貴重な飲み物だったという。

1965年ごろ、天皇家に献上するための牛乳を入れていた容器

学校給食初の牛乳は大正時代。爆発的普及は戦後から

同博物館によると、学校給食で初めて牛乳が配給されたのは1920年(大正9年)で、東京麹町小学校でのことだという。

「ですが、当時牛乳はまだまだ一般的ではありませんでした。第二次世界大戦後、アメリカやユニセフから支給された脱脂粉乳を溶かした牛乳が給食に出されるようになってから、牛乳はしだいに一般的になってきました」(増田さん)

それからわずか60余年で、一人当たり年間約24リットル(2011年度)も消費されるにまで、牛乳は世間に浸透した(農林水産省「牛乳乳製品をめぐる情勢」より)。この現状に対し、牛乳文化黎明(れいめい)期において、同博物館が与えた影響も少なくはないだろう。

江戸末期の日本最初の物から世界のユニークな物まで…貴重な牛乳瓶がズラリ

数ある博物館のコレクションの中でも、ひときわ目立つ入り口付近に陳列されているのが、牛乳瓶のコレクションだ。

日本で最初の牛乳瓶と言われるギアマンの牛乳瓶は、江戸末期頃に製造されたと推定されており、蓋をするネジ切りがあるのが特徴だ。明治時代は瓶の口に薄紙をひねり押し込み、蓋をしていた。その後、木やコルクの栓が用いられるようになり、大正になると金具付きの機械栓が使用されるようになったという。

大変貴重な各時代の牛乳瓶。左から江戸、明治、大正

太平洋戦争中は、ガラス瓶の資材が欠乏したので、各褐色雑瓶を粉砕した原料で作った黒褐色の広口の瓶となっている。また、初期の配達用容器として用いられていたブリキ製の牛乳缶や、専用の管を通して飲むための哺乳器などもレアな逸品だ。世界のカラフルでポップな牛乳瓶を眺めるのも楽しい。

太平洋戦争中の牛乳瓶(左)、配達用のブリキ缶(中)、哺乳器

カウベル、ホルン、バリカン…牧場で用いる変わった品々

牛乳にまつわる品だけではなく、酪農文化や牛そのものに関する展示がされているのも同博物館の特徴だ。

数十頭以上の牛を飼育する際に必要となるのが、カウベル。牧夫や酪農家が群れを先導する牛の首に付けるベルのことで、この鈴の音色に導かれることで、他の牛たちは迷うことなく、酪農家が誘導する方向へと進んでいく。同じように、放牧した乳牛を呼び寄せる際に吹くホルンも牧夫たちには欠かせない存在だ。

これらの展示品は、ヨーロッパの酪農家から譲り受けたものが多いが、「中には『このホルンはウチの家宝だから』となかなか譲ってくださらない方もいらっしゃいまして、日本製のエレキギターと交換でいただいた物もあります」と増田さんは笑う。

豊富な種類のカウベル(左から1、2枚目)とホルン(右から1、2枚目)

バリカンや除角用具、牧草鎌も酪農には不可欠なアイテムだ。乳牛を出品する際に無駄な毛をバリカンで刈り取り、放牧中のけがを予防するために角を取り除くという。

牛用のバリカン(左)、除角器具(中)、牧草鎌

ミルカー、バターチャーン、素焼きの皿…乳製品にまつわるいろいろ

また、回転の力を使ってクリームからバターを作り出すバターチャーンやミルカー(自動搾乳機)などの乳製品にまつわる品々も多い。ヨーグルトを保管したり提供したりする際に用いる素焼きの甕(かめ)や皿は、農家ごとにデザインが異なるため面白い。

搾乳の効率化に寄与したミルカー(左)、バターチャーン(中)(右)

牛のブラジャー、人工授精用具、ひづめの化石などの“珍品”も

変わり種も豊富に揃(そろ)う。

まずは牛のブラジャーで、乳頭をケガから守るために着用させるという。日本人の通常サイズ(青色:Cカップ)や世界一のサイズ(赤色:Zカップ)と比べると、その大きさがわかる。

意外なのが、乳牛の人工授精用具や精液保存缶。世界の優れた牡牛(おうし)の精液を低温で保存でき、必要時にすぐ使えるように準備できるという。今なお、各国で使用しているケースもあるという。

巨大サイズにびっくりのブラジャー(左)人工授精用具(中)、精液保存缶(右)

牛そのものに関する展示品にいたっては、紀元前の物まであるというから驚きだ。中でも珍しいものが、牛の蹄(ひづめ)の化石と牛を象徴するリトン(酒容器)。これらの展示物にはレプリカもあるが、それでも世界に十数個しか存在しないものもあるという。太古のロマンを感じさせる品々だ。

地域とのつながりの象徴となる牛乳博物館

同館には、夏休みともなれば、多い日では一日に80人ほどの家族連れが工場見学も兼ねて訪れる。それにも関わらず、入場料を一切もらっていない。利益度外視で博物館を運営しているのだ。それはなぜか。

「弊社はおよそ380の学校や関東一円の量販店を中心に、牛乳を提供させてもらっています。そうやってせっかくできた地域とのつながりをもっと生かそうと、私どもから牛乳を提供するだけの一方向ではなく、子供さんや地域の方たちにも博物館に来てもらうことによって、双方向のつながりが持てればいいと考えております。だから、料金はいただかないんです」(増田さん)

エレキギターと交換で譲ってもらったホルンのように、牛乳博物館の展示品にはそれぞれ、物語がある。この博物館を訪れて感銘を受けた子供が、いつの日かトモヱ乳業に入社し、その物語を紡ぐこともあるかもしれない。そして、それこそが牛乳博物館が目指すところなのだ。

「牛乳博物館」
開館時間:10~15時(要予約:10人以上の参加が原則)
休館日:土・日曜日
料金:無料
住所:茨城県古河市下辺見1955