企業の経営層は、過去にどんな苦労を重ね、失敗を繰り返してきたのだろうか。また、過去の経験は、現在の仕事にどのように活かされているのだろう。そこで本シリーズでは、様々な企業の経営層に直接インタビューを敢行。経営の哲学や考え方についても迫っていく。
第22回は、1872年に創業し、ユーザー目線に立った生活雑貨の開発を続ける株式会社マーナ専務取締役 名児耶剛(なごやごう)氏に話を聞いた。
経歴、現職に至った経緯
まずは経歴について。名児耶氏は1983年東京都神田生まれ。小学4年生から大学卒業までの13年間、野球に打ち込む生活を送った。学習院大学を卒業したのち、ニューヨークへ留学。現地で「Wiffle ball」という野球に近いスポーツを通じ、交友関係を広げたという。
帰国後の2008年、三菱商事マシナリ株式会社に入社。スペイン、ドバイ、オランダへの出張を通じて海外ビジネスの醍醐味を経験し、2011年に家業である株式会社マーナに入社した。その後は海外販売、国内販売部門を経て、2016年に開発責任者に就任。2018年には専務取締役に就き、今に至っている。マーナに入社した理由について、名児耶氏は次のように説明する。
「父が経営者でしたから、物心がついたころには周囲から『将来は社長になるのでしょう?』と言われていました。それが本当に嫌で嫌で。反発心からか、自然と継ぎたくないな、と思うようになりました」
当時の夢は英語教師。将来の夢を意識したのは高校時代の恩師の影響だったという。「英語教師をしながら野球の指導をされている姿を見て、同じ道に進みたいと考え始めました」
そんな名児耶氏がマーナを継ぐ覚悟を決めたのは、「将来は英語教師になりたい」と3代目社長の祖父、現在4代目の社長である父に伝えたときのことだった。当時の様子を、名児耶氏は「今でも忘れられない」と振り返る。
「いつも笑顔で優しい祖父が、見たことが無いくらい寂しそうな顔をして『そうか、継いでくれないのか…』と言ったんです。その一言を聞いて、『会社を継ぐことは運命だったのか』と覚悟を決めました」
会社概要について
マーナが創業したのは1872年。当時は刷毛、ブラシの専門メーカーだったが、時代の変化に合わせて開発製品を拡大。現在は「Design for Smile 世界中の暮らしに もっと笑顔の瞬間を。」を理念に掲げ、キッチン用品や清掃用品、ショッピングバッグといった生活雑貨メーカーとして事業を展開している。日々の暮らしに寄り添った製品の企画開発がマーナの特徴であり、全メンバーが意識していることについて、名児耶氏は「とことんユーザー目線に立った製品開発」だと胸を張る。
「使い心地がよく気分が上がり、使っていないときでも佇まいが美しく、温かみのある形・色を備えた製品をお届けできるよう努めています。商品開発の際は、メンバー一人ひとりが日々暮らす中で『こんな製品があったらいいな』と感じることをアイディアとして出し合うようにしています。ユーザーの暮らしがより良くなる製品を生み出すことだけを心掛けています」
マーナの数々の製品の中でも特に知名度が高い「おさかなスポンジ」のように、20年以上に渡りユーザーから愛され続けている製品も存在している。このことについて、名児耶氏は「私たちにとって1番の喜びですし、これからも世代を超えて愛されていく製品を作らなければと、身が引き締まる思いです」と語ってくれた。
社長である父との衝突
名児耶氏がマーナに入社した当時、強く印象に残ったのは、会社が「The 名児耶商店」になっていたことだという。
「父は細かいところにまでこだわりが強く、すべて自分が決めないと気が済まないタイプの経営者。そのため、社長に対して異なる意見を言いづらい環境になってしまっていると感じたのです」
そんな環境に対し、「郷に入っては郷に従え」と異論を述べず慣れようと心がけていた名児耶氏。しかし、あるとき、社長のこだわりがエスカレートしているのを目の当たりにし、「ここは私が伝えるしかない」と覚悟を決める。そこで、メンバーの前で「私たちはこう思うのですが」と進言したのだという。
「とたんに親子喧嘩の様相を呈するという有様でした。今考えると、その場にいたメンバーは『親子喧嘩は家でやってよ……』と心の中で祈っていたことでしょう」そう振り返りながら、名児耶氏は苦笑する。
そんな親子喧嘩を繰り広げたあとも、名児耶氏の意見や提案が聞き入れられることはほとんどなかった。名児耶氏がマーナへの入社を決めたのは、祖父の想いに応えたかったがため。その当時の覚悟が急激に薄れていくのを感じ、「私が辞めた方がすべてうまくいくのではないか、と1日に何度も考えてしまうようになっていました」。
しかし、名児耶氏はマーナに踏みとどまることになる。当時のマーナは、発売製品数と開発スピードを追求するあまり、本来のユーザー目線の開発ができない期間が続き、業績も厳しい状態が続いていたのだという。そうした状況下でメンバーの目の輝きがだんだんと失われていくのを目の当たりにしたことで、名児耶氏の心が変わる。
「ここで私が降りるわけにはいかない。縁あってマーナで共に働いているメンバー全員が笑顔になれる環境を作るのが、私に課せられた使命。そう、真の覚悟を決めたのです」
今マーナにあるものは、「当たり前」のものではない
覚悟を新たにした名児耶氏が始めたのは、ユーザーにとって本当に良い製品作りに集中することだった。
「マーナには、創業当時のブラシ専業メーカー時代から、ブラシのように『自分が汚れても、相手を綺麗にする』という言葉が残っています。その言葉の意味を考える中で、やはりマーナは黒子に徹し、使ってくださるユーザーの皆様が笑顔になり、暮らしに彩りを届けられる存在であるべきだと考えるようになったのです」
同時に、昭和色が残る“ごく一般的な”オフィスを改装。「クリエイティブな発想はクリエイティブな環境からじゃないと生まれない」と、天然木と植物に囲まれ、太陽の光が入り、風が吹き抜ける開放感のある空間を作った。さらに、ユーザーと触れあえるよう、メンバーと共にSNSアカウントを開設。そこで出会ったマーナファンをオフィスに招き、交流できる機会を設けるといった試みも行った。こうした試行錯誤が功を奏し、会社の雰囲気は次第に改善し、ユーザーに支持される製品も着実に生まれ始めたのだという。
ぎくしゃくしていた社長との関係性も、このころから少しずつよくなっていったと名児耶氏は振り返る。
「少しずつではありますが社長と対話ができるようになってきたのを実感しました。今になって思うのは、入社時にマーナが持っていた有形無形の資産を、さも当たり前のものだと私が思っていたなということですね。所有している土地、建物、設備といったハード面はもちろん、140年以上経営をする中で培われてきた生産・販売ネットワーク、社内の人財、企業理念を始めとするマーナ独自の考え、想いといったソフト面。これらは社長である父親を始め、長年に渡り多くの先輩方が会社の存続、成長を願う中で苦労を重ね、生み出された成果です。当時の私は、このことに気づくことができなかった、と反省しました」
自分の至らなさを痛感したことで、名児耶氏は社長の意図を受け入れ尊重し、伝えるべきときに異見を伝えるという考え方に辿り着いたのだ。
就活生・若手ビジネスパーソンにメッセージを
最後に、就活生・若手ビジネスパーソンに向けてメッセージをもらった。
「新卒時代の私は、他社と比較し、職場環境や待遇など、『自分の会社にないもの』だけが見えてしまっていたことがありました。それを酒の肴に同期と飲んでいたこともありましたが、今思えばまったく不毛な時間だったなと思います。ないものねだりをするより、今あるもののありがたさに感謝する方が、私は気持ちがいいと感じます。また、ないものがある状況も『まだ伸びしろだらけだ』とワクワクするものです」
名児耶氏はそう笑顔で語り、「結局、今自分が置かれている環境にいるのも、すべて過去の自分がさまざまなことを選択し続けてきた結果だと思っています。どんな状況になっても他責することなく、自責の念を持ち続けていくつもりです」と締めくくってくれた。