棋界に現れた超新星・藤井聡太。歴代5人目の中学生棋士、そして最年少棋士として話題となった藤井は、デビュー後負けなしの29連勝をはじめ数々の記録を打ち立て、国民的スターへと昇りつめた。では、藤井をのぞく4人、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明の修行時代、デビュー後の活躍はどんなものだったのだろう。数々の資料をもとに検証し、藤井聡太のそれと比較していく。

苦節(?)14年 初タイトル「十段」獲得!

1968年度、第8期十段戦七番勝負。前に立ちはだかるのは、これまでに5度、挑戦をはね返されている大山康晴。

「今回こそは」の気持ちで挑んだことは容易に想像できますが、それとは裏腹、出だし2連敗……最悪のスタートとなってしまいます。

しかし、当の加藤は「最悪」とは思っていませんでした。第2局の打ち上げで棋士仲間、加藤より8歳年上の二上達也八段(当時)にビールを注いでもらった時に、ふとこう考えたといいます。

「今日は負けたけど十段になれる」

そして、この直感は現実のものとなります。加藤は第3局、第4局を連勝し、スコアを2-2のタイに戻します。続く第5局に敗れて2―3と後がなくなりますが、第6局、第7局に勝って念願の初タイトルを手にします。

  • ついに大山を破り初タイトルを獲得! 将棋世界1969年(昭和44)3月号より

ついに名人戴冠。『将棋世界』1982年10月号より

「二十歳で名人になるか、二十五、六歳でなるか。とにかく二十歳台で名人になるだろう。」大棋士・升田幸三の予言はこうでした。名人ではありませんでしたが、加藤29歳、20代ギリギリでの戴冠となりました。ただ、中学生棋士としてデビューし、18歳A級八段となって将来を大きく嘱望された加藤にしては、やや「大器晩成」という感が否めないのも事実。

戴冠が遅れた理由はひとつ。それだけ大山の壁が高かったのです。念願の初タイトルは「十段」。では升田の予言にある「名人」に就いたのは果たしていつだったか。

それは、名人戦に出場すること3回目、加藤42歳の時。1982年度(昭和57)第40期名人戦七番勝負、4勝3敗1持将棋2千日手(※持将棋と千日手は引き分け)、十番指しの激闘を制しました。

初タイトルの十段、そして名人を含め前後に8期のタイトルを獲得した加藤。棋界初の中学生棋士は、壮年期に入ってから大きく花開いたのです。

幾多の最高齢記録を樹立、ファンに愛され引退

最後に、全盛期を過ぎてからの加藤について触れておきましょう。タイトル戦から遠ざかり、順位戦でも少しずつクラスを落としていった加藤でしたが、将棋への情熱は消えませんでした。そして、名人経験者でありながら、順位戦をひとつずつ降級してゆき、一番下のクラスのC級2組まで戻った唯一の棋士になったのです。筆者が特に感動を覚えるのは、数字には残らないこの記録です。

相撲の横綱は勝てなくなったら引退するよりありません。将棋にはそういう「ルール」はありませんが「風潮」としてはあり、例えば大山は「A級から陥落したら引退」を明言していましたし(実際に死去するまでA級を守り続けました)、大山のひとつ前の第一人者・木村義雄十四世名人にいたっては、第11期名人戦で大山に敗れて名人を失った際に、「良き後継者を得た」との言葉を残して引退してしまったのです。

しかし加藤の考えは違いました。年に数局しか勝てないようになってもタイトル獲得に情熱を燃やし、盤の前に座り続けました。

結果、最高齢現役、最高齢勝利、最多対局数など、数々の勲章を手にし、ファンに大きな感動を与えて棋界を去ることになったのです。

  • 加藤現役最後の対局。最後まで闘志を失わなかった