日本の夜明け、日航の就航
「日航一番機、けさ羽田出発」
1951年10月25日の夕刊の見出しである。この日、日本航空は戦後初めての国内定期便を就航した。ただし、飛行機もパイロットも持たなかったため、ノースウエスト航空(現デルタ航空)に委託しての運航開始だった。使われた機材はプロペラ機のマーチン202、羽田 - 大阪 - 福岡のルートで所要時間は3時間38分。終戦後の日本はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の支配下にあって民間航空の活動が禁止されていたが、そのGHQから許可されての就航だった。
日本航空が自社購入したダグラスDC-4。巡航速度350km/h、航続距離3,000km、座席数64~69。「高千穂」や「白馬」など名峰の名が冠された。この機にはカートも搭載され、ギャレーでは食事を温めることも可能に |
その頃は、日本航空にも飛行機に乗ったことがない社員が多く、体験搭乗も盛んに行われた。日本航空OBで、当時運航管理の仕事に就いていた吉田仟(しげる)氏は、旅客機に初めて乗ったときに、「汽車(列車)に比べると違うなあ。これなら旅行もずいぶん楽になる」と率直に感じたそうだ。同年11月2日にはダグラスDC-4が就航し、この飛行機は主に羽田 - 札幌便に使われた。日本航空が自社機を購入したのは翌52年、DC-4だった。同じ年、サンフランシスコ講和条約の発効により日本は独立国としての主権を回復。53年には日本航空に政府の資本が入り、その後は国の経済成長とともに世界有数のエアラインに成長していく。
ちなみに、運航を始めた頃の運賃は東京 - 大阪が片道6,000円、東京 - 福岡片道1万1,520円、東京 - 札幌片道1万200円、大阪 - 福岡は片道5,520円だった。とはいえ、会社員の初任給が1万円前後の時代。一般にはまだまだ航空旅行は遠い存在だった。
国際線を開設、日本的サービスも誕生
国内線の就航から2年半後の1954年2月2日、日本航空は国際定期便を開設する。路線は羽田 - サンフランシスコの太平洋路線で途中、ウェーキ島、ハワイを経由し所要時間は31時間だった。DC-4の発展型機DC-6Bが使われ、同じプロペラ機ながら巡航速度は100km/h増して450km/hまで上がった。現在のジェット機は約900km/h前後で飛行するから、半分強の速度まで来たことになる。
DC-6B。巡航速度450km/h、航続距離4000km、座席数36~58席(国際線)、96席(国内線)。空気が薄い高高度を飛んでも機内の気圧を一定に保つ与圧機能が付いたDC-6Bは、DC-4に比べ快適性が格段に向上。「City of Tokyo」「City of Fukuoka」など国内都市の名が冠された |
就航当時はファーストクラスしかなく運賃は650US$。当時の日本円に換算すると23万4,000円。日本人にはなかなか手の出ない金額であり、乗客には米軍やその関係者が多かった。しかし、2カ月後には太平線にツーリストクラス(現在のエコノミークラス)が新設されるようになり旅客数も増加。55年には黒字に転じている。
同じ太平洋線を飛ぶアメリカのエアラインに対抗するためサービスも工夫された。DC-6Bの後継機であるDC-7Cはシートピッチ(座席の前後間隔)を広げて豪華な内装を施し、着物を着た客室乗務員がサービスを実施。桐で仕切られた和風の客室がつくられた。欧米のエアラインに対抗するために、日本的なサービスが行われていたわけだ。
しかし、58年には他社がついにジェット機を使いはじめ、その快適さに魅せられた乗客が流れていった。一方で日本航空もすでにジェット機を発注済みで、首を長くしてその納入を待ち望んでいたのである。