箱根路を走るロマンスカーは小田急のシンボルでもあり、歴代のロマンスカーは常に斬新なデザインで利用者・鉄道ファンを魅了してきた。
昨年に登場した新型ロマンスカーGSE(Graceful Super Express)は、それまで小田急が登場させてきたロマンスカーの系譜を受け継ぐ。小田急は箱根路への特急運行に社運を賭けており、それだけにロマンスカーに手を抜けない。GSEは、そんな小田急の矜持が感じられる素晴らしいデザインになっている。
特急の車両デザインに力を入れる小田急だが、ほかの鉄道会社と同様に都市開発・住宅地開発にも力を注いできた歴史を有する。数ある小田急の都市開発でも、ひときわ力を込めていたのが林間都市の建設だった。駅名で言うならば、小田急江ノ島線の東林間駅・中央林間駅・南林間駅の3駅、自治体名なら大和市・相模原市・座間市・一帯に広がる大きなエリアにあたる。林間都市の計画地は、約100万坪と広大だった。その規模からも、小田急が林間都市の実現に並々ならぬ執念を燃やしていたことが窺える。
現在の利用者は1日平均で3万5,000人に満たない南林間駅は、開業直後は南林間都市駅という駅名だった。中央林間駅と東林間駅も同様に駅名に"都市"が含まれていた。
小田急が推進していた林間都市計画は、地勢的に見ると中央林間駅が中心といえる。小田急の林間都市計画から遅れること約半世紀、東急が1984年に田園都市線を中央林間駅まで延伸し、以降はにぎわいの面から中央林間駅が南林間駅をリードしている。
しかし、小田急の開発コンセプトなどの思想面を考慮すると、南林間駅が中心だった。南林間駅の北側には、女子短期大学・女子高等学校・女子中学校・小学校などを擁する大和学園聖セシリアがキャンパス地を構える。大和学園聖セシリアは、小田急創業者・利光鶴松の娘の伊東静江が1929年に創立した。
当時、計画的につくられた都市には必ず教育機関が設置された。子弟を学校に通わせて学問を習得させることは、富裕層のステイタスだったからだ。
そして、教育機関は住宅地販売や沿線のブランドイメージ向上にも寄与した。南林間駅の開業と同年に大和学園聖セシリアが開学したことは、小田急がそれほど南林間駅に力を入れていたということを物語る。
南林間駅の西口は小さなロータリーが整備されており、そこから放射状に道路が伸びている。一見すると、街並みはどこにでもありそうな平凡な住宅街のように見える。しかし、この街路を地図で見ると、南林間駅が計画的に造成されたエリアであることが浮かび上がる。
南林間駅を軸にして、小田急は野球場・テニス場・ラグビー場・相撲力士養成所などを誘致・整備して、林間都市をスポーツが盛んな地へと導こうとした。現在、南林間駅から北西・にゴルフ場の相模カントリー倶楽部がある。また、2018年に開館したばかりの市民交流・スポーツ・子育ての拠点施設もある。両施設とも南林間駅というより中央林間駅が最寄駅といえるが、これが、林間都市の名残といえるかもしれない。
また、小田急は林間都市開発にあたり松竹撮影所や成田山宗吾霊堂も誘致しているが、これは道半ばで終わった。ここまで小田急が林間都市の開発に執念を燃やした背景には、総帥の利光のプライドによるものが大きかった。利光は、都市開発を盛んに進める東横電鉄(現・東急電鉄)の五島慶太をライバル視していた。それだけに、林間都市開発で五島に負けるわけにはいかなかった。
利光は、林間都市に首都機能を移転させる壮大な計画をも夢想した。しかし、小田急の林間都市は東京都心部から遠く、所要時間がかかる。そのため、東京に通勤するサラリーマンがマイホームを構えることは難しかった。それが林間都市の発展を阻む要因になっていた。首都機能の移転はおろか、住宅街としてさえ満足に開発されることはなかった。
計画のほとんどが実現しないまま、1941年に林間3駅は改称された。改称によって、駅名から"都市"がはずれる。これは、小田急の敗北宣言でもあった。
ちなみに、南林間駅から西へ約30分歩くと、踏切メーカーとして知られる東邦電機工業の相模工場がある。工場の玄関前には、踏切が設置されて常に警報機が点滅している。これは単なるオブジェではなく、耐久性を調べるための作業として実施している。
踏切は鉄道の安全運行を陰で支える縁の下の力持ちだが、こうしたメーカーの不断の努力によって、安全な鉄道運行が維持されていることは頭の片隅に入れておきたい。
バブル期、東京都心部の地価は高騰した。庶民は手が出せないため、都心部から遠かった南林間駅にも宅地化の波が押し寄せることになった。そして、住宅街として変貌する。戦前から開学していた大和学園聖セシリアは、現在も南林間駅に残る。規模は小さいものの、朝夕に女学生で混雑する南林間駅の光景は小田急が描いていた林間都市の理想に近いのかもしれない。