漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「この世で最も美しいもの」である。

まずこの質問自体この世で最も汚い部屋にいる奴にするべきものではない気がする。

先ほども家人にパソコンの調子が悪いと伝えたら「部屋が汚いからではないか」という名回答をいただいた。

もはや電子機器に影響を及ぼす汚さなのだ。ペースメーカーなどを使用している人は立ち入り禁止である。

何を美しいと思うかは人それぞれである。むしろ全員が同じものを美しいと思い、それしか愛せないようでは人類は滅亡してしまう。

よって「少し顔のデザインが規格外な方が好き」という「好み」があり、またさほど美しいとは思ってなくても「このぐらいでいいか」と思える「妥協」、そして「この程度なら俺でもイケる」という「小狡い精神」を搭載することで我々は子孫を残してきたのである。

よって、合コンでいつも三番手あたりを狙う奴を見ても姑息などと思ってはいけない。それは種を保存するために必要な本能なのだ。

ただ美的感覚というのは「木のウロを見ると興奮を隠しきれない」などの先天的なものもあるが、後天的なものも多い。

我々は、幼いころから日常生活やメディアに「こういう顔が美しいんや」「痩せていて胸部が発達しているのがいとをかし」などと叩きこまれるため、その条件に当てはまった人間を見ると自然に美しいと感じるようになってしまうのだ。

つまりその条件の中に「天パ」とか「すきっ歯」とかがあれば私にもワンチャンあったということだ。

逆に言えば、美しく生まれたのではなく、現在の美の条件にたまたま当てはまって生まれたと言っても良い。

よって自分が美しくならなくても、天パやすきっ歯が美の象徴とされる地域、または部族に入れば一瞬に「美人」になれるのである。

このように「美」というのは非常に不確かな上、美と醜は対極のようで実は隣り合わせなのである。

まず美しいものというのは注目を浴びる。そして鑑賞する人数が増えれば増えるほどその中に特殊なデザインの方が好きな人や、美意識が違う部族の人、そして逆張り野郎を持つものが含まれるようになる。

そしてその中の1人が「言うほど美人か? むしろブスじゃね?」と言い出した途端「拙者も実はそう思っていた侍と申す者、義によって助太刀致す!」となり、あっという間にブス派ができてしまったりする。

つまり、テレビに出ているような美人というのは数で言うとそこら辺の小ブスなどよりずっと「ブス」呼ばわりされた回数が多かったりするのである。

これは「ワンピースは私の本より遥かに売れているが、ブックオフに売られている数も私よりずっと多い」という現象と同じだ。

またブス派の中には「本当は美しいと思っているが、嫉妬心からブスと言わずにいられない」という人間も混ざっている。

つまり美しいものを見ることにより、心が洗われるのではなく、逆に醜い感情が芽生えてしまっているのである。

そもそも、他人の容姿を美だブだとジャッジすること自体が醜いという考えも最近広がりつつある。

また美を手に入れるために、ワザと栄養を取らなかったりするなど、生物としての行動がブサイクになってしまったりもする。

そうやって手に入れた美すら、少し崩れただけで「待ってたぜ、この瞬間をよお」とばかりに、鉄パイプの代わりに「悲報! ○○劣化」と書かれた半紙を持って裁判所から出てくる奴が必ず現れたりと、人間の美には常に醜がつきまとう。

なぜ人間がこのように歪な構造になってしまったかというと、この世で一番美しい生き物「猫」のあとに人間が作られたからと言われている。

神が「猫」という最高傑作を作り上げ「やりきった」と神なのにすっかり賢者モードになっているときに「尺が余ったんで、もう一個なんか作ってもらえますか?」とADに言われて、スタッフロールが流れる中、適当に作られたのが人間である。

そのせいで神も、名作を撮ったあとに駄作を撮ってしまった映画監督のように「猫は良かったけど、その次の人間はねえ」と、永遠に評論家の間で評価がイマイチなアーティストと化してしまったのである。

このように、人間は猫を作ったあとの余り材で作られているため、デザインに統一制がない上にバグだらけなのである。

だが、そんな人間の中でも特に不具合が多く、嫉妬丸出し、隙あらば逆張りで他と違うアピールをしようとする私にですら「美しい」と理解でき、素直に認めることができる「猫」という生物を作ってくれたことに心から感謝している。