3月は、世界的に大腸がんへの理解と予防の重要性を呼びかける「コリ・カラー・ブルーリボン月間」です。大腸がんは日本でも患者数の多いがんの一つであり、早期発見・早期治療が重要とされながらも、症状の見過ごしや受診の遅れによって進行した状態で見つかるケースも少なくありません。誰にとっても無関係ではない病気だからこそ、正しい知識と向き合うことが求められています。


毎日こつこつと積み上げるように働き、生きている私たち。そこに、にわか雨のように突如訪れる「病」。自分自身だけでなく、パートナーや子ども、親などの近親者が何らかの疾患にかかることで、当たり前のように過ごしていた日々が一変することもあります。そして、大きな不安を抱えながらも、それでも働き、生きていかねばなりません。

生きるとは、働くとは、幸せとはなにか考えるシリーズ「生きる、働く、ときどき病」。今回はパートナーの闘病、死別、そして自身のうつ病を経験した清水浩司さんにお話を伺います。


出版社で雑誌の編集者として働いていた清水浩司さんは“ヨメ”こと睦(むつみ)さんと入籍から1年4カ月の間に出産・闘病・そして別れを経験します。全3回のインタビューの1回目です。

入籍、妊娠、そしてがんの発覚

学生時代に共通の友人を介して知り合ってから17年来の友人だった浩司さんと睦さんは、2009年3月、ともに37歳初婚で入籍。神奈川県・川崎のマンションで新婚生活を始めて間もなく睦さんの妊娠が判明します。驚きと喜びでいっぱいの夫婦でしたが、気がかりは睦さんの体調が優れないことでした。

  • 結婚当初、川崎のマンションでの一枚

    結婚当初、川崎のマンションでの一枚

「下痢と便秘を繰り返していたんです。でも妊娠中の症状としてもあるものだと聞いてあまり深刻に考えていませんでした。ところが妊娠5カ月に入った9月初旬、病院で検査を受けたヨメから、震える声で『直腸がんだった』と電話がありました。1週間後の精密検査では、さらにリンパ節に転移してステージ3であると告知されました。文字通り目の前が真っ暗になったようで、その日はどうやって家に帰ったのか思い出せません」(清水さん)

幸いなことにおなかの赤ちゃんはすくすく育っていました。まずは帝王切開で早めに出産をし、その後放射線と抗がん剤で腫瘍を小さくしてから手術、という治療予定が組まれました。9月下旬、睦さんは妊娠28週6日で1,481gの男の子“ぺ〜”くんを出産します。ぺ〜くんはすぐにNICUにある保育器で管理入院となりました。

急展開の事態を夫婦共通の友人たちに連絡する手段として、浩司さんは夫婦名義のブログ『がんフーフー日記』を始めます。

「結婚、妊娠、直腸がんの発覚、出産、手術……と状況があまりに複雑に急展開していましたから、友人たちに1人1人伝えるよりも、ブログを見てもらったほうが事態が正確に伝わるし、こちらも1回書けば何度も説明しなくてもすむのでは、とヨメと話し合って決めました」(浩司さん)

ブログには睦さんの治療の様子や病状、息子・ぺ〜くんの成長、治療方針への悩み、パートナーの闘病への葛藤などがユーモアを交えながら小気味よくつづられています。

「ブログを頻繁に書いていたのは、頭を整理する意味もあったでしょうし、状況が深刻だからこそユーモアを必要としていた面もあったと思います。あとはだれかに苦しさをわかってもらいたい気持ちもありました。ブログを読んだだれかが共感してくれることが、救いだったところもあります。ヨメに面と向かっては照れくさくて言えないこともブログなら伝えられるし、ヨメにとっても直接言えないことを吐き出せる場があった方がいいという部分もありました」(浩司さん)

厳しい闘病の中、ぺ〜くんの存在が救いだった

11月下旬、睦さんは入院しての放射線治療と抗がん剤治療を終え退院。NICUに入院していたぺ〜くんも退院し、家族3人の生活が始まりました。ぺ〜くんの育児のために、睦さんの実家・福島と浩司さんの実家・広島から親たちが上京し、交代で育児を手伝いました。

  • お見舞いに来てくれた家族や友人たちと

    お見舞いに来てくれた家族や友人たちと

「育児だけでも大変だった上に、ヨメの闘病や通院も重なってとても手が足りず、母親たちにシフトを組むような感じで手伝いに来てもらっていました。母親が来られないときは、友人たちに子守をお願いすることもありました」(浩司さん)

睦さんは姉御肌で気さくな人柄で、いつもたくさんの友人に囲まれている人でした。病気のことを知った友人たちは次々にお見舞いに来て、病室も家もにぎやかだったそうです。

「ヨメの病状はシビアでしたが、ぺ〜がいることで自然とみんなが笑顔になるんです。病気の発覚・治療と同時に生まれてくれた小さな赤ちゃんの存在はすごく大きかったですし、ぺ〜は僕たちみんなの救いになっていたと思います。ヨメも母になったことで生きる力が増してくるはず、という希望のようなものも感じていました」(浩司さん)

睦さんの心身のケア、通院、育児、サポートしてくれる人の調整、仕事……、浩司さんは当時の多忙すぎる生活を振り返り「めちゃくちゃだった」と言います。

「結婚も出産も初めてで、さらにヨメががんっていう。すべてが初めてで先がわからないし、必死というか、ものすごい波にのまれた状態でした。

会社と家庭、この2つの世界があって、家庭の日常は大波乱でしたが、会社の日常はそれまでと変わらず続いている。それが安堵の場になっていた気がします。会社には保険組合があったので高額医療費補助などの面でもすごく助かりました」(浩司さん)

肺・腹部への転移で心が折れ、葛藤する日々

病気がわかった当初は、放射線と抗がん剤で腫瘍を小さくしてから手術をする予定でした。しかし12月中旬、浩司さんのもとに医師から「一人で病院に来てほしい」と電話があります。駆けつけるとレントゲン写真を見せられ、肺と腹部への転移を告げられました。

「転移していると聞いて『これはもう助からない』と直感し、心が折れました。かなりきつい治療を耐えてきたのに、がんは治まるどころか進行しているなんて……。

もしこの事実をヨメが知ったら、彼女の性格上、生きる気力を失ってしまうのではと思い、本人にどう事実を伝えるべきかご両親や友人と協議しました。

そしてこれ以降、僕はがんの寛解をめざすのはあきらめて、いかに悔いなく残りの時間を使ってもらうかを考えるようになりました」(浩司さん)

さまざまな化学療法を受け体力が低下する中で、病気と闘い続けるのは睦さん自身です。患者を支える立場の浩司さんは、睦さんがよりよく生きることについて葛藤していました。

「このころから、拠点をヨメの実家がある福島県・いわき市に移すことを考え始めました。故郷は彼女がいちばん好きな場所だから、体力があるうちに移動していわきで過ごしたほうがいいと考えたんです。

ただ、ヨメ自身は、抗がん剤治療がしんどくても治療をやめたいとはなかなか言い出しませんでした。患者にとって、がん治療をやめるという決断は、非常に恐ろしいことだと言うのです。なぜなら、たとえ強い副作用があっても、そこには“治るかもしれない希望”があるからです。逆に治療をやめて緩和ケアを受け入れるということは、もうこの病気は治らないということ、つまり死が間近にあるという事実を認めることになります。

治療を頑張ろうとするヨメに僕が『きっと治るから大丈夫、治療をがんばろう』と言ってしまえば、ヨメは死の恐怖から逃れられるかもしれません。しかし現状から目をそらしていると、病気が進行して、体力が落ちて、川崎からいわきまで移動する体力もなくなってしまうかもしれません。正解がないなかで、自分はどうすればいいのか常に葛藤していました」(浩司さん)

愛にあふれたヨメハゲフェス、そして拠点をいわきへ

自宅からの通院治療をしていた睦さんを励ますため、2010年5月、睦さんと浩司さんの友人たちがサプライズイベントを開催しました。

  • GWにいわき市へ一時帰郷の際に開催した『ヨメハゲフェス』には、ヨメの両親も参加。東京からわざわざ来てくれた友人も

    GWにいわき市へ一時帰郷の際に開催した『ヨメハゲフェス』には、ヨメの両親も参加。東京からわざわざ来てくれた友人も

「『ヨメハゲ(嫁をはげます)フェス'10』と題して、ヨメの実家近くにある海沿いの公園で、友人たちが40〜50人ほど集まり、サプライズで僕とヨメとの草上結婚式を開催してくれました。結婚してすぐ妊娠、そしてがんが発覚した僕たちは結婚式を挙げていませんでした。友人たちにドレスを着せてもらい、ティアラをつけたヨメは、とてもうれしそうでした。

ヨメのために何かしてあげたい、という友人たちの温かい気持ちがあふれていました。福島の人たちの温かさ、人情の厚さを感じましたし、ヨメがどれだけ周囲に愛されているか、どれだけ周囲に愛情をばらまいてきたかも感じました。普通に公園に遊びに来ていた方も野次馬で集まってくるし、めちゃくちゃドタバタでカオスなフェスでしたけど、忘れられない思い出です」(浩司さん)

このあとの治療は睦さんの実家があるいわきで行うこととなり、一家は拠点を移すことになりました。浩司さんは会社を退職し、睦さんに付き添うことを決めます。

「4月に医師と相談して、現在の病状に関する“告知らしきもの”を行いました。ヨメは『抗がん剤をやめて1カ月しか生きられなかったとしても、元気な体でぺ〜と1カ月すごせるほうがいいのかな……』と決心し、いわきで治療を続けることにしたんです。

ただ“決心した”と言っても、そういう気持ちって行ったり来たりするんです。ヨメも1度は『抗がん剤をやめる』と言いましたが、死の恐怖に耐えられなくなり『やっぱり抗がん剤治療を再開したい』と言い出しました。だけど僕はヨメの感じる恐怖も、恐怖がやってくる波も最終的には共有できません。あのとき、ヨメになんて言ってあげればよかったのか、もっと違う接し方ができたんじゃないか……それは今でも考えます」(浩司さん)


続きの記事<送別会帰りに受けた『ヨメ死去』の連絡――結婚から1年4カ月での別れと、シングルファザーの「もし僕が死んでしまえば…」の想い>では、睦さんとの別れ、浩司さん自身のうつ病の発症、広島に移っての新生活についてお聞きします。