
この記事は「レース生まれの美しき魔物|メルセデス・ベンツ300SLガルウィング【前編】」の続きです。
現代の公道にて
現代に話を戻そう。私たちは映画のような景色が広がるポルトガルのアレンテージョにいる。このシャシーナンバー55000563は、1955年7月30日に新車としてスウェーデンに納車され、その後アメリカへ渡って、20年前にポルトガルへたどり着いた。現在は、エキゾチカを集めた素晴らしい個人コレクションの一画を成す。優美な足元はセンターロック式ホイールで、スプラインを切ったラッジ製ハブが中央に光る(このオプションを装着しないと、ガルウィングは裸に見えて落ち着かない。”通”の間では必須とされている)。
300SLは見た目ばかり有名で、実態はよく知られていないといわれる。その走りを知る者はもっと少ない。それを解明するには少々時間がかかるが、外観は間違いなく圧巻だ。カジノのポーカーで最も高額なチップが青いことから、歴史的な価値の定まった芸術品は”ブルーチップ”と呼ばれるが、ガルウィングはコレクターにとってのまさにブルーチップである。
1台で佇む姿は、異世界から来たように見える。同時代のモデルを並べてみても、その印象は変わらない。ガルウィングと比べたら、腹立たしいほど創造性に欠けて見える。たとえクラシックカーに興味のない人でも、ガルウィングが”隠し芸”を披露すれば、思わず感嘆のため息を漏らす。皮肉なことに、あのドアは目を引くためのものではなかった。ベースとなったレーシングカーのSLと同様、ずんぐりしたガルウィングドアを採用した理由は、シルのスペースを大きく確保し、鋼管フレームのトラス構造をコクピットの両サイドに設けて、シャシーのねじり剛性を高めるためだった。単なるスタイリング上の飾りではないのだが、この構造は文字どおり”躓きの石”で、乗り込むときに邪魔になる。
巨大なシルはどうしようもないが、少なくともステアリングはヒンジで倒れる。最善の方法は、シルを乗り越えて尻をシートに滑らせてから両足を入れることだ。案の定、ペダルも大きいが、考えてみれば、ガルウィングには繊細な印象を与えるものが何ひとつない。
しかし、車内は開放感があり、視界はほぼ360°良好で、これは広いガラスのおかげだ。ガラスといえば、長いこと取り上げられてきたもうひとつの”問題”に触れないわけにはいかない。それは換気が不可能なことだ。カメラマンは、ドアを閉めたまま静止状態の写真を撮影すると、親切にも車内を冷やすためにドアを開け放してから、ディテールの撮影に取り掛かった。おかげで、私がまた乗り込んだときに、車内が60℃を超えているような事態は避けられた。
クオーターガラスを開けてもたいして効果はない。窓を取り外すことなら可能だが、車外からやる必要がある。それ以外は快適で、シートは広々としているし、ペダルが滑稽なほどオフセットしていることもない。ボディと同色の計器盤は、いかにも1950年代初期から中期の雰囲気だが、計器類は適度な華やかさだ。大径の速度計と回転計はひと目で読み取りやすく、ギアレバーは腕を伸ばさなくても届く位置にある。すべてが何ともしっくりくる。湯気が上がるほど汗をかくとしても、スタイリッシュにできそうだ。とはいえ、レーシングカーにルーツを持つ車なのだから、ステアリングを握ったら、そんなことは気にしないだろう。少なくとも最初のうちは。ステアリングは巨大で、金属の塊から削り出したかのようだ。
低速域では、すべてが重く感じられる。ステアリングも、クラッチも、ブレーキも、何もかも。これはたいして意外ではない。面白くなり始めるのは、速度が上がってきてからだ。第一に、ガルウィングは速い。人間なら年金をもらうほどの年齢の車にしては速いといっているのではなく、実際に速いのだ。たるんだ顔の皮膚が加速力で伸びるほどとはいわないまでも、相当のスピードが出ていることは、はっきり感じる。1000rpmで40km/hと、かなりのハイギアードだが、スロットルペダルを踏み込めば、延々と加速し続ける。トルクがどっと湧き上がるのだ。こうなるとサウンドも生き生きし始め、サラブレッドの咆哮に金属質の響きが混じる。
パワーデリバリーは極上だ。2000rpmから自ら課したレッドラインの5500rpmまで、甲高いエンジン音と飛び去る景色があるから回転の上昇を意識するが、そうでなければ気づかないほどスムーズに回り、よどみなくパワーが溢れ出す。ギアレバーをゲートの中で動かしたときの感触も積極的で、期待どおりの正確性でスッと入る。クラッチも滑らかに重みが変わり、ほとんど力がいらない。
ガルウィングには誰もが魅了されるだろう。コミュニケーション能力が高く、それが実に楽しい。約2回転でロック・トゥ・ロックのステアリングも、速度が上がるにつれてますますキビキビとしてくる。直進位置にはやや遊びがあるが、ふらつくことはない。ガルウィングは従順なのだ。
この車の構造の利点も、すぐに実感する。同時代のほかのスポーツカーやGTのように、明らかに戦前モデルに化粧をしただけという感じはしない。小径の鋼管をいくつも組んだスペースフレームならではの剛性の高さから、300SLの足元はかなり柔らかくできるし、実際、この車も柔らかい(オプションの競技仕様のスプリングやダンパーを備えている場合は別だが)。そのため、あくまでも相対的にではあるが、乗り心地は驚くほど快適だ。くつろげるといってもいいほどで、これで大陸横断の長距離ドライブをすることさえ想像できる。ただし、シートの後ろに収まるほど荷物が少なく、途中で暑さにやられなければの話だが。
では、メルセデスはレーシングカーを見事に手懐けて、獰猛さを美徳に変えることに成功したのだろうか。答えはイエスとノーだ。ガルウィングはあらゆる点で素晴らしいが、問題が二つある。まず、ブレーキはどんな速度でも頼りにならない。ペダルフィールは重く、ぎこちない感触だ。もうひとつがハンドリングの問題である。このモデルをドライブした経験のある人は、少しでも思い切ったコーナリングをしたり、そうでなくても奥へ行くほどきつくなったり路面の傾斜が変化したりするコーナーでは、あのコミュニケーション能力が崩壊することを知っている。テールがいきなり激しく振動し始めるのだ。心臓が口から飛び出しそうになる。まるで大成功と大失敗の間で綱渡りをしている気分だ。
こんなことをいうと、300SLを熟知したドライバーには笑われるだろう。初心者でも、十分に減速してから飛び込み、徐々に加速しながら立ち上がればうまくいく。もっと反射神経に恵まれた人なら、ガルウィングはスロットルで操れると豪語するかもしれない。あまりにも急激な減速や乱暴な切り返しさえ避ければ、テールが正しい方向に流れ始める。あとはスロットルペダルを踏み続ければ一丁上がり。ひっくり返ることもなく、車は自然に体勢を立て直して、ちゃんと進行方向に進む、というだろう。とはいえ、これには練習と自信、そして十分なランオフエリアが必要だ。現実的には、ガルウィングはけっして奔放にドライブできる車ではない。限界域のかなり下でたしなむべきだ。この革新的なメルセデスには、今も畏怖の念を抱かせるだけの理由があるのである。
ガルウィングなら欠点さえも許せてしまう。華麗という言葉をそのまま形にしたようなセンセーショナルなルックスも、この車を特別な存在にしている理由のひとつにすぎない。平均的なサルーンがじれったいほどの加速力しかなかった時代に、常軌を逸した速度を実現し、そのスピードは現代人をも唸らせる。300SLは、いわば当時のハイパーカーだが、これもまた、偉大な名車に押し上げた理由ではない。この車は欠点があるから面白いのだ。好評か悪評かのいずれかで有名な車なら、いくらでもある。だが、ガルウィングは両方で知られている。この二面性が、人を惹きつけてやまないのだろう。その魅力で誘惑し、ときに震え上がらせて、もっと味わいたいと思わせ、何度でも引き寄せる。これ以上の魔力があるだろうか。
1955年メルセデス・ベンツ300SLガルウィング
エンジン:2996cc、直列6気筒、OHC、ボッシュ製機械式燃料噴射
最高出力:240bhp/6100rpm 最大トルク:30.0kgm/4800rpm
変速機:前進4段MT、後輪駆動 ステアリング:ボール・ナット
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー、アンチロールバー
サスペンション(後):独立式。スウィングアクスル、ラジアスアーム、コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー
ブレーキ:4輪ドラム 車重:1252kg 最高速度:217km/h 0-100km/h:8.8秒
編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curatorsLabo.) 原文翻訳:木下恵
Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curatorsLabo.) Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Richard Heseltine Photography:Luis Duarte
THANKS TO owner Ricardo Sáragga and Adelino Dinis.