増子直純

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第5回は結成40周年を迎えた怒髪天の増子直純をゲストに迎え、山あり谷ありのバンド人生を振り返ってもらった。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 沼田学

2024年で結成40周年、メジャーデビューからは34年目を迎えたバンド、怒髪天。ボーカル&リーダーの増子直純は、その破天荒なバンド人生を、かつて自伝「歩きつづけるかぎり」(2014年 / 音楽と人刊)に書き記した。そのハイライトの1つが、1991年にメジャーデビューするにあたり北海道からメンバーそろって上京したにもかかわらず、所属した事務所が直後に倒産したというもの。以降、さまざまな仕事を転々とし、バンドはインディーズでのリリースを続けながら、2004年にテイチクエンタテインメントから再デビュー。エモーショナルな楽曲とライブパフォーマンスで熱く支持され続けている。しかし、増子がこのインタビューで明かしたバンド人生から伝わるのは、単なる七転八倒なドタバタ劇ではなく、意外にもクールかつ客観的なまなざしだった。そして今、増子直純が改めて語る“デビュー”とは?

メジャーに行くこと=魂を売ること

デビューに関しては相当いろいろありますよ(笑)。

──自伝「歩きつづけるかぎり」にも当時のエピソードを書かれてますが、ドラマチックすぎますよね。

上京早々、ひっくり返ったんで(笑)。話が違いすぎるって。

──そもそも怒髪天を組んで、バンドとしてデビューするぞという目標はあったんですか?

そういうふうに考えたことは1回もなかったね。もともとハードコアパンクのバンドだったし、世の中に対して嫌がらせじゃないけど、引っかき回してやるってことしか考えてなかったんで。そんなバンドをやってるやつが、デビューして? 音楽でメシ食う? なんていうのは普通考えないでしょ? 本当に考えたことなかった。

──仕事にするという考え方が、そもそもパンク的ではないというか。

まあアナーキーやザ・スターリンに影響されて80年代後半にバンドやってたんだから、そもそもメジャーデビューなんてクソだと思ってたしね。俺ら世代特有の感覚なのかもしれないけど、「メジャーに行くこと=魂を売ること」だっていう概念を植え付けられてきたから。でも、そんなところにバンドブームがやって来た。あれが大きかったよね。急に俺らのライブにもお客さんが入るようになった。

──「イカ天」(「三宅裕司のイカすバンド天国」1989年2月~90年12月までTBS系列で放映)で、バンドブームも大きくなりましたしね。

あの番組の影響も大きかったのかな? 北海道では最初はネットしてなくて、しばらく経ってから放送が始まったんだけど、その影響は確実にあった。ローカルのテレビ番組とか地元の雑誌でも、バンドブームの特集が組まれるようになって、そこから怒髪天もいろんなイベントとかに呼ばれるようになった。あの当時で200、300人くらいお客さんが入っちゃった。当時、俺はまだ札幌にいて、24歳。半分仕事して、半分バンドやって食えればいいやって思ってた。東京に出ていくつもりもなかったし。

──怒髪天目当てのお客さんがどんどん増えていってもなお「バンドで食べていく」という考えにはならなかったんですか?

さっきも話したけど、メジャーでやるのはカッコ悪いと思ってたから。ロックバンドとしては「魂を売った」みたいに思ってた。でも、インディーズブームでジャパコアのバンドまでメジャーデビューするようになったよね。あぶらだこみたいなバンドがメジャーで活動してる姿を見て、時代が少しずつ変わってきたんだなとは思った。だけど、自分が音楽で何かしてやろうみたいなことは思っていなかったな。

──当時、誰か背中を押してくれた存在はいたんですか?

俺にとってはKENZI&THE TRIPSのメンバーだった上田ケンジさんの影響が大きかった。KENZI&THE TRIPSがキャンペーンかなんかで札幌に来てたとき、地元の番組で人気のあるバンドが紹介されたんだけど、ゲストで番組に出てた上田さんが怒髪天のことを褒めてくれたんだよね。俺はその番組を観てなかったんだけど、周りから「上田さんが褒めてたよ」って、すごく言われて。それで、「もしかしたら俺たちも東京で通用するんじゃないか」と思った(笑)。

──僕も地方の九州出身なんですけど、東京との距離感って、直線距離よりも大きく離れてる感覚があるじゃないですか。海を越えていくっていうのデカい。

そうね。生活も全部変わるしね。要するに、俺にはそこまで音楽に懸ける意気込みがなかったんだよ。でも俺たちが上京するちょっと前のタイミングで、北海道のバンドが一斉に東京に出ていったんだよね。bloodthirsty butchers、eastern youth、the pillowsとか、メンバー総勢何十人が西荻窪~吉祥寺近辺に住み始めてさ。俺は地元にいるときから、北海道のバンドは東京のバンドに絶対負けてないと思っていた。そして、先に行った彼らが「東京は面白いぞ」って言うから、俺も徐々に興味が出てきた。札幌のシーンはバンド数が減って頭打ちになっていて、イベントに出ても同じ対バン相手ばかりで。その点、東京のライブシーンは、対戦相手もいっぱいいるし刺激もたくさんあるんだろうなっていう期待もあった。俺らのところにも、メジャーレーベルからいくつか誘いが来てたから、じゃあ行ってみるかって感じでクラウンレコードと契約した。それが25歳の春だった。

事務所倒産、バイト生活へ

──クラウンから提示されたのはどんな条件だったんでしょうか。これなら東京でもやっていけるという納得の条件?

いや。とりあえず1枚アルバムを出してみよう、みたいな。今でいうショット契約だよね。俺たちから出した条件は、山中湖で合宿レコーディングをしてみたいっていうこと。テレビ番組の「ザ・ベストテン」で、サザンとかがレコーディング中に中継で出てたでしょ? ああいう場所でレコ―ディングしてみたいなと思った。それは自分の金じゃできないでしょ。あとは怒髪天のアルバムの題字を北島三郎さんに書いてほしいということ。この2つの条件を飲んでほしいとお願いした。それで事務所が所有してた、埼玉の所沢にあるワンルームマンションに引っ越したんだよね。1部屋にメンバー2人ずつ住まなきゃいけなかったけど、地下にスタジオがあって練習代もかからないから、まあいいかって。そしたら次の月に事務所が潰れて!

──なんと(笑)。

話が全然違うぞって(笑)。

──突然すぎますよね。何か前触れはなかったんですか?

その事務所には、当時、GASTUNKも所属してたし、そんなにあっさり潰れるなんて思ってなかったな。それに当時の俺たちは、レコード会社と事務所の違いもわからん状態だったから、事務所はなくなったけどレコード会社があるし、なんとかなるんじゃないかと思ってた。でも、なんともならなかったね(笑)。結局、次の月からバイトしなきゃいけなくなった。それで、新たに西荻に部屋を借りて、メンバー全員で住んだ。いわゆるタコ部屋だよね。だけど、当時はギリギリバブル期だったんで、バイトの日当がすごく高かった。時給も札幌の2倍か3倍もらえた。バイトすれば毎日遊んで暮らせるみたいな状況で、そこで逆に楽しくなっちゃったんだよね、東京おもしれえな、みたいな(笑)。

──ダメじゃないですか(笑)。

いや、もともと俺はバンドに重きを置いて生活していなかったから。適当に仕事して、好きなもん買って、バンドもやって、酒飲んで、みたいなことでよかった。一旦活動休止するまではそういう生活だったね。それに当時はもうバンドブームが終わった時期だから、バンドカルチャーは逆にダサいと思われていた。音楽好きなやつらはライブハウスじゃなくてクラブに遊びに行ってた。だから俺らがライブをやっても全然お客さんが来ない。デビュー作もCDバブルの恩恵を受けてないし。バンドとして、甘い汁を一滴も吸えなかったね(笑)。

──当時、怒髪天に好意的だったライブハウスが3店くらいあったんですよね。

吉祥寺の曼陀羅、下北沢の屋根裏、あと横浜の7th AVENUE。その3店だけは、よくしてくれたね。ちなみに、俺らがいた頃の北海道にはまだライブハウスっていうシステムが存在しなくて、自分らでホールを借りて、チケットを売って、売り上げをみんなで割るっていうのが普通だった。だから、こっちに来てびっくりしたよね。各ハコごとにジャンル分けされていて、自分がそこに出たくてもそのジャンルじゃないと出れないっていうのは知らなかった。テープ審査があることも知らなかった。なかなかカルチャーショックがあったね。

──東京と北海道のシーンの違い、興味深いです。

ブッチャーズとイースタンとはずっと仲よかったし、あいつらがいたパンクとかオルタナ系のシーンは徐々に盛り上がりつつあったんだけど、我々はどっちかっていうとブルースとかロックンロール寄りのバンドだから、ジャンル的に死んでた(笑)。バンドブームの残党みたいなレイドバックした奴らが集まってたな。お客さんを10人も呼べないバンドばっかり4つくらい集まって、ライブをやってた。最前列がメンバーの彼女だったりして、本当に最悪。胸が痛くなるような状況がずっと続いてた(笑)。

──メジャーデビューというチャンスがあって、わざわざ上京したわけじゃないですか。その後の顛末としてはキツいですよね。

だって、デビューアルバムでレコード会社が取って来てくれた取材が、「DOLL」と「FOOLS MATE」の2誌だけだよ。そんなことある!?(笑) どっちもインディーズ系の雑誌だよ? せっかくメジャーデビューしたのに(笑)。あとはケーブルテレビの番組にゲストで呼ばれたくらいかな。ろくにプロモーションもしてくれなかった。それで、「これからどうする?」ってなったときに、「もう1枚アルバムを作りましょう」って言われた。だけど、「もういいわ」って断った。「自分らでやったほうがよっぽどよくない?」っていう話になったんだよね。それでクラウンは辞めた。

3年間のバンド活動休止

──増子さんは、こんなにおしゃべりが面白いじゃないですか。キャラクター面でのフックアップとかなかったんですか?

なかったね。しゃべりは今とあんまり変わらないけど。ただ、やっぱり若さゆえじゃないけど、地金がよくなかったよね(笑)。

──地金(笑)。

本当に若い頃は、いらんことばかり言ったりしてた。

──若い頃のケンカの話も自伝には出てきます。

俺は仲間をすごく大事にするから、それゆえにいろいろなところで揉めたね。自分の仲間たちを守るために外側と。そういうのは、今のヒップホップの連中とそんなに変わんないよ。外側をそれほど敵視する必要はないんだけどね。そういうこともまだ若いからわからんかったな。

──バンドとしてはもがいている状況だったと思うんですけど。

いや、バンドだけで食おうとしたら苦しいのかもしれないけど、俺はバンドだけで食おうと思ってなかったしね。だから「バンドで苦労しましたね」っていう感じではなかった。30歳になった1996年から怒髪天を3年間休止したけど、そのときにちょうどオルタナシーンが盛り上がってブッチャーズ、イースタン、あと弟の(増子)真二がやってるDMBQが次々メジャーデビューして、海外ツアーに行ったりするようになった。でも、そのときも、うらやましいとか嫉妬心とかなかったもんね。純粋に、よかったなって思った。俺の耳は間違ってなかったと思ったし。あいつらは音楽しかできないというか、不器用で純朴だし、バンドに懸けてる人たちだったんで、よかったなと思った。

──そこでジェラシーにつながらないのもすごいというか。ある意味、すごくクールですね。

俺は何をやっても食えると思ってたし、実際そうしてきたからね。バンドを楽しくやって、あとは適当に金が入るような仕事をして生活できればいいと思っていた。そういう考え方って、どっちかっていうと札幌よりは東京向きだと思う。食いっぷちの大きさは大小あるけど、仕事の玉数が東京はすごく多い。隙間産業じゃないけど、いろんなことができる。今でこそバンドは自分の人生の中でのかなり大きな存在ではあるけど、当時は全然そんなことなかった。人生のすべてがバンド、みたいな感じではなかったかな。

──周りにいるバンドマンたちともそういう話はしてました?

俺は楽器を弾けるわけでもないし、曲を作れるわけでもない。歌詞を書いて歌うだけなんで、音楽的な才能はそいつらに敵わない。彼らのことは札幌にいる頃からすごいと思っていたし、そういう面で考えると音楽的な素養って俺は非常に低いからね。飲んだときに、そういう話はよくしていた。

──でも、逆に友だちのバンドマンから「怒髪天は、もっとできるはずだよ」って言われませんでした?

うーん。でも俺がバンドに重きを置いてなかったのをみんなわかってたからね。もちろん今は違うよ? 役者仕事をやったり、いろんなことをやってるけど、基本的にはバンドをやる。そこの軸足はしっかりしたいなと思ってる。役者仕事のほうが安定していたり儲かったりってことで、そっち側に軸足を置く人もいるじゃん。そういう例もいろいろ見てきたし、面白いのはわかるけど、俺的にはそうじゃないんだよね。そこも自分の人生の中の楽しみの1個である。

──人生の中の楽しみの1個。そのスタンスが、バンドを続けられる理由なのかもしれないですね。

もちろん、今はバンドのほうがウェイトは大きいよね。自分の中で常に何が優先なのかはきちんとしたい。世間的にどうか、とかは関係ない。俺の中で何が大事かっていうこと。そこに素直に向き合って生きてきた。メジャーデビューしても、全然さっぱりで心折れちゃって田舎に帰る人もいるけど、俺の中では「まあ、こんなもんだろ」みたいな気持ちもあるんだよ。自分のバンドが間違いなく面白い音楽を作ってるっていう自信はあるけど、それを理解してくれる人間が、いわゆる世の中の大多数であるとも思ってないというか。

──「俺らのすごさを認めろ!」みたいなことにはならない。

ならないね。怒髪天の曲が内包してる本質的な部分が、日本人の大半に受け入れられるようになったら国の治安がすごく悪くなる(笑)。LAUGHIN' NOSEのPONに言われたんだけど、「怒髪天の曲ってそのへんのパンクバンドとか比べ物にならないくらいレベルミュージックだからマズいよ」って(笑)。日常レベルの疑問とかそういうものをシンプルにぶつけていくみたいなことが好きでやってるんで。まあポピュラリティという意味ではなかなか難しいけど、借金しないで暮らせるくらいでやれたら十分かなって。

<後編に続く>

増子直純(マスコナオズミ)

ロックバンド・怒髪天のボーカル。1966年、札幌市出身。一度見たら忘れられないエモーショナルなライブスタイルと、その真逆をいく流暢なMCが混在するステージは圧倒的。気さくなキャラクターで「兄ィ」の愛称で親しまれている。過去、ゲーム専門誌「ファミ通」で連載コーナーを持っていたほどゲームへの造詣も深く、またテレ東「開運!なんでも鑑定団」に鑑定依頼人として出演するほどの生粋のヘドラコレクターでもある。楽曲提供や、テレビCM、映像 / 舞台作品への出演も積極的に行うなどマルチに活躍中。

怒髪天オフィシャルウェブサイト
怒髪天(@dohatsuten_crew)| X