新井さんの人生を変えた「スローフラワー」とは!?
2000年代のアメリカで始まった「スローフラワー」。エシカルでサステナブルな方法によって旬の季節に花を栽培し、近隣地域の消費者が日常的に花を楽しむというムーブメントだが、日本ではまだそれほど知られていない。
そもそも日本では母の日や結婚式、卒業式や入学式といったイベントに合わせた花の消費が多く、大規模なイベントが減ったコロナ禍では、花の大量廃棄も問題になった。スローフラワーは、ほとんど浸透していないのが現状だ。
10代の頃にアメリカ・ニュージャージー州で過ごした経験がある新井さんは、もともと自然に囲まれた環境の中で自給自足の暮らしを送るヒッピー的な生活に憧れを持っていた。就農のきっかけになったのは、14年ほど前の、東京都内から神奈川県への引っ越し。畑を耕したりニワトリを飼ったりする暮らしをしてみようと思い立ち、小さな畑を作った。
「最初の頃は、家で使う野菜を栽培する程度でしたが、偶然、インスタグラムですてきなアメリカの花農家を見つけたんです。ネットでリサーチしたら、スローフラワーで栽培された花だとわかりました。
花に農薬を使用しているか、それまで気にしたことはなかったのですが、“無農薬で花栽培”ということがとても新鮮でした。日本ではあまり手掛けられていないようでしたけど、これから関心が高まるだろうなと。そこで、スローフラワーの勉強を始めたのが9年前。40歳を前にして、新しいことを始めたい。自分のライフステージとうまく合った感じです」(新井さん)
当初はさまざまな野菜を育てていたものの、気になっていたスローフラワーに取り組んでみてその奥深さに魅了された。今では数名の女性スタッフの力を借りながら、水仙、チューリップ、金魚草、ダリアなど少量ずつ多品種の花を栽培している。すべて種から育てており、無農薬の露地栽培を行う。3月から10月中旬頃までが花の季節で、冬は畑を休ませる。畑の広さは少しずつ増やし、現在は全部で500坪ほどになった。
本来、スイートピーは5月に咲く初夏の花。無農薬・露地栽培で育てた花は野性味があって力強い
無農薬・露地栽培のスローフラワーにおいては、その花本来の開花時期に収穫する。
「例えば、春先のイメージが強いスイートピーは、本来なら5月に咲く花です。10月に畑に移植して自然に任せると、5月に咲く。また、以前植えたカーネーションは8月頃に咲きました」
どちらもイベント需要が増える時期からは大きく外れている。入学・卒業などのセレモニーにスイートピー、母の日にカーネーションと、消費者のニーズにあわせて、タイミングよく一定量を出荷できるのはハウス栽培ならではの強みであり、スローフラワーで実現するのは難しい。
ただし、無農薬・露地栽培で育てた花は強い、と新井さんは語る。
「自然本来の成長期に育つ旬の花たちは、害虫がついたり病害が発生したりすることは少なく、風雨にさらされているから野生味があって力強いです。ただ、最近は豪雨が多いので、カビや、台風でなぎ倒されてしまったりというアクシデントはありますね」
強風で一度倒れても復活し、大きく曲がっても太陽に向かって再び伸び続ける花もある。こうした生命力にあふれた花をこよなく愛する華道家もいる。茎が曲がったりゆがんだりした花の、ありのままの姿が唯一無二の魅力なのだという。力強く野生味のある花たちにすっかり魅了され、リピーターになる人も多い。
また、少量多品種の花を育てる中で、神奈川の内陸部の気候にはなじまない品種もある。愛らしいストックやアスターを栽培しようと何度か挑戦しているものの、うまく育たないという。土地や気候にあった花を選ぶのも、スローフラワーのポイントといえるだろう。
花農家・翻訳家・通訳、そして子育て。翻訳・通訳の収入を柱に花農家1本化を目指す
現在、新井さんの花は、オンライン販売や近隣の店に置いてもらっているほか、都内のファーマーズマーケットにも出店している。決まった売り方はなく、花束を作ることもあれば1本だけ売ることもある。今年からはCSA(地域支援型農業)の活用も始めた。
しかし、手間ひまをかけて育てたスローフラワーは採算が合うのだろうか。また、大量生産の難しいスローフラワーで経営は成り立つのか。
この問いに対する答えを求めて、新井さん自身も事業のあり方を模索している。新井さんは現在、花農家専業ではなく、翻訳・通訳による収入を柱に花農家事業に投資するかたちで、二つの仕事を並行している。
「私の場合、翻訳・通訳業で補填(ほてん)することを念頭に置いて、スローフラワーへの挑戦を進めてきました。花農家が軌道に乗るまでは、しばらくこの体制を継続する方向です。いきなり1本化することはやはり難しい。
無農薬の露地栽培で手間もかけていますので、価格はもう少し上げたいところですが、食べ物に比べると花に費やす金額は限られますよね。まだハードルは高いです。
直接販売しているので、仲卸を仲介しない利益もありますが、それでも花農家だけでは経営が厳しいのが本音です。少量多品種の課題を逆手にとって、市場経由ではなく、スローフラワーに関心の高いお客さまと直接やり取りするのが現実的かなとも思っています。
花農家へ1本化するためにはどうしたらいいか、常に考えていますね」
さらに新井さんは4人の子供を持つ母親でもある。忙しい毎日の中で、翻訳作業は夜間を中心に行ったり、時には農作業をスタッフに任せて通訳の仕事に出かけたり、時間をやり繰りしながら農業と翻訳・通訳業を両立している。また暑い季節は早朝に農業、午後からは翻訳という日も多い。
「やるからには収入を得て持続可能にしていきたいと思っています。花農家の比率を上げていきたいですね。花の小売りだけでは難しいかなと思う一方で、最近、花畑を見たいという問い合わせが多いんです。このニーズをくんで、見学や体験なども今考えているところなんですよ」
自分の強みを生かし、時間的に融通のきく事業を継続しながら、まずは小さく農業を始める。新規就農の一つのアプローチとして、新井さんの手法は大いに参考になるだろう。それまでの仕事やキャリアをすべて捨てて新規就農するのではなく、仕事を継続しながら小さく農業を始める。専業農家としてすぐに生計を立てられなくても、試行錯誤しながら比較的時間をかけて農業に取り組める。将来的に専業農家になるのはもちろん、兼業農家を続けるという道もある。
地元の人が育てた花を日常的に買う暮らしへ。スローフラワーの仲間を増やして「花の地産地消」!
大量生産や大規模流通が難しいスローフラワーだからこそ、また、スモールビジネス・ローカルビジネスの端緒をつかむためにも、自分のできる範囲で、近所の皆さんに喜んでもらえる展開につなげたい。新井さんが考えるのは「花の地産地消」だ。
「地元の人が育てた花を買うのが日常になれば、イベントの時だけでなく、普通の毎日にちょっと花を買うような暮らしにつながるのではと思うんです。消費行動が変化するきっかけになったらいいですね」
地域のスローフラワー仲間を増やしていくことも地産地消の一環だ。国内でスローフラワーに取り組む花農家はまだそれほど多くなく、情報も限られている。そのため新井さんは得意の英語を生かして世界中からスローフラワー農家が集まるオンラインのコミュニティに参加し、情報交換をしている。海外の農家が実践する手法を参考にすることも多い。
オンラインコミュニティに集うスローフラワー農家は、国はもちろん規模もさまざまで、中には自宅の裏庭を小さな花畑にしているといった小規模なケースもある。それぞれが自分なりのスローフラワーを楽しんでおり、活発に情報交換がなされているという。
スローフラワーはその性質上、一度に大量に供給したり特定のタイミングに合わせて出荷したりすることは難しい。手間ひまがかかるスローフラワーを旬の時期に適正な価格で売るためには、まずスローフラワーの認知度を上げる必要がある。花の旬を知り、ありのままの姿を愛する、暮らしの中でもっと身近に花を取り入れるといった消費者側の意識や消費行動の変化も欠かせない。
今後は、新井さん自身がスローフラワーの魅力をSNSなどで広く発信するほかに、花の種の販売や、花畑見学、体験といった取り組みも検討している。
少しずつではあるが、スローフラワーの波が来ていると感じる新井さん。スローフラワーの認知度が向上することで、関心を持つユーザーも増え、おのずと花農家1本化への道も開けていくだろう。
取材後記
別の事業との両立で経済的に安定を図り、無理のない範囲で農業に取り組む新井さんのアプローチは、新規就農や小さい規模から農業を始めたい人にとって大いに参考になるだろう。スローフラワーへの取り組みで専業農家として生計を立てるのは容易ではないが、リスクヘッジをしながら、自分が実現したいスローフラワーを追求する新井さんは本当に格好よく、すてきだ。農業のありようは、農家の生き方そのものにつながっていると感じた取材だった。
【取材協力・画像提供】
four peas flowers