日本を代表する随筆『枕草子』の著者として知られている清少納言。学校の授業などで名前を聞いたことがある人は多いでしょう。しかし、出自や性格、作品の詳しい内容などをご存じでしょうか。

本記事では、清少納言はどんな人なのか、出自や性格、本名や死因の他、枕草子や百人一首に選ばれた歌の内容を分かりやすく解説。紫式部との驚くべき関係性もまとめました。

  • 清少納言とは

    清少納言はどんな人かやライバル・紫式部との関係、代表作『枕草子』の内容などについて解説します

清少納言とは? どんな人かや本名、性格などを解説

清少納言は、一条天皇の中宮(皇后に次ぐ后のこと)・皇后である藤原定子(ふじわらのていし)に仕え、高い教養や才能を持った人物だったとされています。より詳しい出自や経歴、性格などを見ていきましょう。

清少納言の出自と本名

清少納言は、平安時代中期の966年ごろ、歌人である「清原元輔(きよはらのもとすけ)」の末娘として誕生しました。

曾祖父(そうそふ)である「清原深養父(きよはらのふかやぶ)」も有名な歌人で、清原氏には和歌や漢学などに精通した人物が多かったとされています。

なお清少納言という名前は本名ではなく、女房名です。ここで言う女房とは貴人に使える女性のことで、女房は父や夫の官名などにちなんだ通称である、女房名で呼ばれるのが一般的でした。

「清」は清原氏を意味するものの、なぜ「少納言」と呼ばれていたか、また本名は明らかになっていません。

清少納言の経歴

清少納言は993年に、関白・藤原道隆の娘であり、一条天皇の后である定子のもとに出仕。

彼女は早くから文化的な家庭環境で育ったこともあり、宮中でも才能を発揮し、藤原公任などの公卿殿上人とも交流します。

充実した日々を過ごしていましたが、定子中宮の父、藤原道隆が没したことで、状況が大きく変動します。政権が反対勢力の藤原道長に移行し、その際に清少納言も道長方に内通しているとの噂が立てられました。

そのような中で私邸に籠居していた996年に執筆したものが、『枕草子』の初稿本です。定子中宮のもとに届けられたこの作品が称賛を浴び、清少納言は間もなく再出仕することとなりました。

宮中に戻った清少納言は、1000年に定子が亡くなるまで仕え続けます。その後は宮廷を退き隠居したとされていますが、詳しいことは明らかになっていないようです。

清少納言の性格

歌人である父や祖父のもと、恵まれた環境で育った清少納言は、高い教養や才能を持った人物であったとされています。

臨機応変な対応が要求された後宮で、豊富な知識と優れた感性をもとに鋭敏に行動し、その様子は多くの人々を感嘆させました。

清少納言の性格やエピソードについて調べると、「鋭い美意識」「利発」「早熟な少女」などの言葉が数多く並び、知識やセンス、機転を持ち合わせていたことがうかがえます。

また、公卿殿上人らとも積極的に交流していたことから、明るい朗らかな性格だったのかもしれませんね。

ただし、清少納言に関しては必ずしもいい描写ばかりというわけではなく、『紫式部日記』には「賢ぶって学才をひけらかす」などという旨が記されています。

才能があふれるゆえに自慢話をすることも多かったようで、そういった面に苦手意識を持つ人もいたのかもしれません。

清少納言と紫式部の関係

  • 清少納言と紫式部の関係性とは

清少納言と並ぶ平安時代の女流作家として、紫式部が挙げられます。

どちらも後世に大きな影響を与えた作品を生み出したことで知られていますが、2人の関係性はどのようなものだったのでしょうか。

ここからは、清少納言と紫式部の経歴などに焦点を当て、2人の関係性を解説していきます。

2人とも天皇の后の教育係として活躍

清少納言と紫式部は、ともに貴族の娘で天皇の后となった女性の女房として、宮廷で頭角を現しました。

清少納言は藤原道隆の娘である藤原定子に、紫式部は藤原道長の娘である藤原彰子(ふじわらのしょうし)にそれぞれ仕え、教養を身に付けさせるために尽力したようです。

定子と彰子はともに一条天皇の正妻です。先に中宮だった定子を皇后にし、新しい中宮に彰子を迎えました。このことは今までに無かった、一帝二后の最初の例となりました。

なお藤原道隆と藤原道長は兄弟かつ宮廷での地位を争う関係性だったこともあり、清少納言と紫式部も対立関係にあるとされていました。

紫式部は『源氏物語』で有名に

彰子中宮に仕えた紫式部の代表作となっているのが、平安時代中期の文学作品『源氏物語』です。

「光源氏(ひかるげんじ)の物語」や「紫のゆかり」など、別の呼び方もあるこの作品は、54帖(じょう)にも及ぶ長編物語で、執筆は長期にわたるものであったと考えられています。

人物の心理や自然の描写に優れた華麗な文章は、「もののあはれ」、つまりしみじみとした情緒を表すといわれ、和歌をはじめとする後世の日本文学へ大きな影響を与えました。

現代においても古典文学の最高峰として語られることが多く、日本はもちろん、海外でも高い評価を得た文学作品として知られています。

ライバルといわれるが2人が実際に対面したことはない

ともに天皇の后の女房として活躍し、互いにすばらしい作品を残した清少納言と紫式部。

よくライバル関係だといわれる2人の作家ですが、宮仕えの時期がかぶっていなかったため、実際に対面したことはないようです。とはいえ前述したように、紫式部は『紫式部日記』にて「賢ぶって学才をひけらかす」などと記載し、清少納言を酷評しています。

立場が似ていることから、お互いに意識する部分はあったのかもしれませんね。

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清少納言の代表作『枕草子』について

  • 清少納言の代表作『枕草子』とは

清少納言を代表する作品といえば『枕草子』が挙げられますが、名前は聞いたことがあるものの、どのような作品なのかはよくわからないという人もいるでしょう。

『枕草子』は日本初の随筆文学といわれており、清少納言が定子中宮に仕えていたころの体験などを、日記や随想の形で記載したものとなっています。

自然や人々の気持ち、定子の聡明さにまつわることなどが、鋭い感覚をもって軽妙な言葉で描かれている点が大きな特徴で、平安女流文学の傑作として、後世に大きな影響を与えました。

先ほども少し触れましたが、『枕草子』は清少納言が仕える定子の父が亡くなり、権力が徐々に失われていく中で書かれたものです。しかし当時の定子の不遇さや悲しみ、苦しみについては触れられていません。あくまで輝かしい楽しい日々が、軽妙なタッチで生き生きと描かれているのです。

前述のように紫式部の『源氏物語』は「もののあはれ」、つまりしみじみとした情緒を表す代表作といわれるのに対し、『枕草子』は「をかし」、つまり明朗でサッパリとした興味深さ、面白さを表す代表作です。

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そのほかの清少納言の作品

清少納言のほかの主な作品には、家集『清少納言集』があります。

日常生活を描写した即興的な和歌が多く見られ、こちらでも清少納言の機知に富んだ人柄を垣間見ることができるでしょう。

清少納言と百人一首

  • 清少納言と百人一首

鎌倉初期に成立した「小倉百人一首」。天智天皇から順徳院まで100人の和歌を一首ずつ集めたもので、歌集としてはもちろん、歌がるたとして現在も親しまれています。

この小倉百人一首にも、清少納言の和歌が収められています。

「夜をこめて 鳥のそら音(ね)は 謀(はか)るとも よに逢坂(おうさか)の 関は許さじ」

「まだ夜明けまでに時間があるというのに、ニワトリの鳴きまねをしてだまして通ろうとしても、あなたは私に会うことはできませんよ」という意味です。「逢坂の関」とは、男女が結ばれるところ、という意味を持っています。

ニワトリの鳴きまねの部分は中国の故事を取り入れており、「私の中の恋の関所の番人は、決してだまされませんよ」ということを述べた、ウイットに富んだ歌なのです。

百人一首に選ばれていることからも、清少納言が歌人としても優れていたことがうかがえます。

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清少納言の死因と墓

清少納言は1025年ごろに60歳前後で亡くなったとされていますが、死因に関しては記録が残っておらず、明らかになっていません。

なお、徳島県鳴門市里浦町にある観音寺の天塚堂には、里浦で晩年を過ごしたとされる清少納言の墓碑があります。

観音寺は清少納言の祈願寺としても親しまれているようですので、興味のある人は訪れてみてはいかがでしょうか。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』ではファーストサマーウイカさんが清少納言を演じる

2023年1月7日よりNHKにて放送開始の大河ドラマ『光る君へ』。

10世紀後半、京の下級貴族の家に生まれた「まひろ」が、シングルマザーとして子育てする傍ら『源氏物語』を執筆する様や、運命のひとであり後に最高権力者となる藤原道長との不思議な縁を描いた物語です。紫式部の情熱や、強くしなやかな生きざまを感じることができるでしょう。

主人公の紫式部(まひろ)を演じるのは吉高由里子さん、そして清少納言を演じるのはファーストサマーウイカさんです。

清少納言の経歴や作品、紫式部との関係性を理解しておこう

清少納言は平安時代を代表する女流作家で、966年ごろ、著名な歌人である父のもとに生まれました。

一条天皇の后である定子のもとに出仕した彼女は宮廷で才能を発揮し、高い教養や鋭い美意識などを持った人物であったとされています。

代表作『枕草子』は、独自の視点から自然や人事を観察した様子を記す随筆で、平安文学の傑作として人々の間で高く評価されました。

清少納言の性格や作品、ライバルといわれることの多い紫式部との関係性などを知っておくと、平安時代の歴史や文学についての理解がより深まることでしょう。