ゲームやカクテルの名付けなどでも人気の「楊貴妃」。なんとなく「中国のお妃さまの名前」「美人」というイメージがあっても、実際にどんな女性だったのか、どのような人生を歩んだのかを詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。

この記事では、世界三大美女とうたわれる楊貴妃について、その生涯や死因、代表的なエピソードを解説します。またお墓など、日本に残る楊貴妃伝説も紹介。どのような人だったのかを知り、より歴史に親しみましょう。

  • 楊貴妃の生涯と代表的なエピソードを解説します

    楊貴妃の生涯と代表的なエピソードを解説します

楊貴妃とはどんな人?

楊貴妃は、今から約1300年前の中国で皇帝の妃(きさき)だった女性です。「貴妃」とは名前ではなく、皇帝の妃という意味の称号です。

楊貴妃は古代エジプトの女王であるクレオパトラ、平安前期の歌人である小野小町とともに「世界三大美女」といわれ、美女の代名詞とされています。国政をおろそかにさせるほど魅力的な女性であったとされ、夫である玄宗(げんそう)に寵愛(ちょうあい)されて一族全体で権力を持つまでになったものの、最後はその玄宗の命令で殺されてしまいます。その悲劇性から人気も高く、詩や戯曲が数多く残されました。現代でも映画のテーマ、ゲームのキャラクターやカクテルの名などとして親しまれています。

楊貴妃の生涯

  • 楊貴妃の生涯を順番に追ってみましょう

    楊貴妃の生涯を順番に追ってみましょう

その美貌によって皇帝を堕落させた、絶世の美女だったなどといわれる楊貴妃ですが、具体的にはどのような生涯を送ったのでしょうか。本当に悪女だったのかどうか、楊貴妃の一生を見てみましょう。

出生

楊貴妃は719年、唐時代の蒲州(現在の山西省)に生まれ、名前を玉環(ぎょくかん)といいました。一説には、生まれたときから玉環(玉の輪)を持っていたことが名前の由来ともいわれています。父の名前は楊玄琰(ようげんえん)でしたが、幼いときに死に別れてしまい、叔父で役人であった楊玄璬(ようげんきょう)に育てられたとされています。

寿王、李瑁の妃になる

735年、楊貴妃はその美しさを買われ、唐の玄宗皇帝の息子である寿王、李瑁(りぼう)の妃になります。李瑁は、玄宗と、当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃との息子であり、第18皇子でありながら武恵妃と宰相の李林甫(りりんぽ)に皇太子にと推される人物でした。この時点ですでに、楊貴妃がかなりの大出世をしていることがわかるでしょう。ところが武恵妃が病没してしまい、李瑁を皇太子にという運動は失敗。玄宗も妃を亡くして深い悲しみに暮れてしまいます。

さて李瑁と楊貴妃は仲むつまじい夫婦でしたが、楊貴妃を見た玄宗は美しい彼女に心を奪われ、妃にしたいと考えるようになります。息子の妻をそのまま奪ったのでは体裁が悪いため、玄宗は一度、楊貴妃を女道士(道教の聖職者)としてから、宮中に召し上げました。

玄宗皇帝の妃「貴妃」になる

745年、楊貴妃は正式に貴妃(皇后に次ぐ夫人に与えられる称号)の地位を得て、楊貴妃となりました。当時は27歳で、娘子(じょうし)と呼ばれ皇后に等しい扱いを受けていたとされています。玄宗は楊貴妃を大変に気に入り、常に自分のそばに置いていました。また、楊貴妃が皇帝の寵愛を受けたことにより、楊貴妃だけでなくその一族も厚遇を受けました。

例えば楊貴妃の姉はそれぞれ韓国夫人・虢国(かくこく)夫人・秦国夫人という地位を得ました。またいとこの楊国忠(ようこくちゅう)も監察御史(かんさつぎょし/官吏、行政を監視する役割)となっています。

官僚たちは出世するために楊貴妃や楊一族の関心を引こうとし、楊貴妃の家には数多くの贈り物が届けられたといわれています。さらに武将であった安禄山(あんろくざん)が、子のいない楊貴妃の養子となることを申し出るなど、皇帝の腹心たちも楊貴妃からひいきされようと競っていました。こうして楊貴妃と楊一族は玄宗の庇護(ひご)のもと大きな権力を持ち、ぜいたくな生活を送ったのです。

楊貴妃の死因は、安史の乱で追い込まれた夫の命令による縊死(いし)

玄宗の政治力の衰えや、楊一族があまりにも強い権力を持ち、また横暴に振る舞ったこともあり、楊貴妃と楊一族の時代は長くは続きませんでした。

その滅亡のきっかけが安史の乱(あんしのらん)です。李林甫の後釜として宰相になった楊国忠は安禄山と対立し、「安禄山に謀反の意思がある」と文句をつけて玄宗から遠ざけようとしました。玄宗もこれを聞いて安禄山に疑いの心を持ったため、それに反発した安禄山が755年に范陽(はんよう/現在の北京)で挙兵、安史の乱を起こしました。もちろん楊国忠の横暴と楊貴妃に直接の関係はありません。しかし楊貴妃が皇帝の寵愛を受けたことを理由として楊氏が要職に抜てきされたことと、また玄宗が楊貴妃に心を奪われて政治に無関心であったせいで楊一族の横暴が許されてしまったと考えられたことから、楊貴妃にもその悪意が向けられてしまったようです。

楊国忠は交戦するものの大敗し、南下してきた安禄山の兵は長安に迫ります。玄宗や楊貴妃たちは蜀(しょく/現在の四川)へと逃亡を試みました。しかし途中の馬嵬(ばかい)という場所で警備に当たっていた兵士たちが反乱を起こし、楊国忠を殺害します。このとき兵士たちはさらに玄宗に迫り、最終的には玄宗の命により、楊貴妃も縊死(首をくくって死ぬこと)させられたと伝えられています。当時楊貴妃は、玄宗の妃となってから10年程しかたっていませんでした。

長恨歌と長恨歌伝

楊貴妃を失った玄宗は皇太子に位を譲って上皇となり、757年に長安に戻りましたが太極宮に閉じ込められ、楊貴妃の絵を眺めて毎日を過ごしたとされています。

玄宗と楊貴妃の死後、二人のロマンスは数多くの文学作品などで題材にされました。

楊貴妃をテーマにした文学作品の中でも、特に有名なのは806年に作られた『長恨歌(ちょうごんか)』と『長恨歌伝(ちょうごんかでん)』です。どちらの作品も、友人同士であった白居易(はくきょい)・陳鴻(ちんこう)・王質夫(おうしつふ)の3人が仙遊寺にて、玄宗と楊貴妃について語り合ったことがきっかけで誕生したといわれています。

『長恨歌』は白居易の作った長歌で120句からなっており、二人の出会いから別れまでを描くだけでなく、楊貴妃の死後、玄宗が道士に彼女の魂を探させ、彼女の伝言を聞いて悲しみに暮れるというストーリーになっています。『長恨歌伝』は陳鴻の作で、白居易の『長恨歌』が書かれた後にその解説として執筆された小説です。『長恨歌』はそのストーリー性と詩の響きの美麗さから非常に人気があり、中国の文学だけでなく日本の『源氏物語』に引用されたり箏曲にアレンジされたりするなど、大きな影響を後世に及ぼしました。

楊貴妃のエピソード

  • 楊貴妃はライチ好きであったという逸話は有名です

    楊貴妃はライチ好きであったという逸話は有名です

そのロマンチックな生涯で小説や戯曲のテーマとして人気がある楊貴妃ですが、彼女にはさまざまな逸話も伝わっています。知ると楊貴妃に親しみのわくエピソードの中でも、有名なものを紹介しましょう。

ライチが好物

楊貴妃はライチが好物で、わざわざ南方から早馬で8昼夜かけてライチを取り寄せ、食していたとされています。現在でも、楊貴妃にあやかり「妃子笑(ひししょう)」と名付けられたグリーンライチが中国で栽培・販売されています。

楊貴妃は本当に美人だったのか?

玄宗皇帝の心を捉え、世界三大美女にも数えられる楊貴妃は、豊満な体つきをしていたといわれています。唐の時代の中国は貧しい人が多かったため、痩せている人よりふっくらとした体形の人の方が「美しい」とされていました。

実際のところはわかりませんが、後代の文学者、書家である蘇軾(そしょく)も「環肥燕瘦(かんぴえんそう)」という言葉で、ふくよかな美人の例えとして楊貴妃(環は玉環のこと)を、小柄な美人の例えとして漢の成帝の皇后であった趙飛燕(ちょうひえん)を対比させています。

舞と音楽の名人だった

また楊貴妃は、踊りと音楽に秀で、聡明(そうめい)であったとも伝えられています。玄宗が夢の中で見た天人の音楽にならって作ったといわれている「霓裳羽衣(げいしょううい)の曲」に合わせて踊り、皇帝を喜ばせました。霓裳羽衣とは仙女や天人が着ている、虹のように美しい羽衣と裳のことを指します。また琵琶や磬(けい/つるした石の板をたたく打楽器)の演奏も得意だったといわれています。

楊貴妃にちなんだもの

  • 楊貴妃にちなんで「楊貴妃メダカ」と名付けられた赤いメダカが有名です

    楊貴妃にちなんで「楊貴妃メダカ」と名付けられた赤いメダカが有名です

絶世の美女であったとされる楊貴妃は知名度も人気もあるため、今でも「美しいもの」や「豪華なもの」などの名付けに使われることが多くあります。楊貴妃にちなんで命名されたものを紹介します。

メダカ 「楊貴妃メダカ」

その美しさ、気高さから「楊貴妃メダカ」と名付けられたメダカが有名です。突然変異により体色が朱赤色のメダカが発見され、その体色を固定化したものが楊貴妃メダカです。2004年に作出され、改良メダカブームの先駆けとなったとされています。稚魚の頃は薄い体色をしていますが、大きくなるにつれ朱赤色に変化し、とりわけ産卵期には婚姻色としてより赤く発色します。

楊貴妃メダカを基とした寸胴体形の楊貴妃ヒカリダルマメダカ、頭のところだけ赤い楊貴妃透明鱗丹頂メダカ2色メダカなど、さまざまな品種が存在します。

カクテル 「楊貴妃」「楊貴妃の涙」

楊貴妃にちなんだカクテルにはその名もズバリ「楊貴妃」と名付けられたものと、「楊貴妃の涙」が存在します。「楊貴妃」は鮮やかな水色をしたライチ風味のカクテルです。桂花陳酒(けいかちんしゅ)というキンモクセイの花を白ワインに漬けて風味を移したもの、ライチリキュール、グレープフルーツジュースを混ぜたものにブルーキュラソーで色を付けてシェイクします。

「楊貴妃の涙」も同じくライチ風味ですが、こちらは赤いカクテルです。ライチリキュールにカシスリキュール、グレープフルーツジュースを混ぜたものに炭酸水を注いでかき混ぜます。どちらも楊貴妃がライチを好んだことにちなんで名付けられています。

桜 「楊貴妃桜」

「楊貴妃桜」といわれる園芸用の桜の品種も存在します。八重桜で4月ごろに開花し、直径5センチ程度と桜にしては大きめでひらひらとした花びらが特徴です。色は薄ピンク色をしており、花びらの縁にいくに従って色が濃くなります。見た目が豪華で美しいことから楊貴妃が連想され名付けられたという説や、奈良県興福寺の「玄宗」という名の僧が愛でたことから名付けられたという説などがあります。非常に古くからある品種で、1478年(文明10年)~1618年(元和4年)に記された「多聞院日記」(興福寺多聞院の院主である英俊らの日記)にも記述があるほか、1681年(天和元年)の「花壇綱目」(江戸時代の園芸書)などにもその名が記されています。

また桜以外にも、梅の品種、香木にも楊貴妃が名前に用いられているものがあります。

楊貴妃の墓は日本の山口県にある? 京都には楊貴妃観音が?

  • 日本の山口県にも楊貴妃伝説があります

    日本の山口県にも楊貴妃伝説があります

前述の通り中国の馬嵬で殺されたとされている楊貴妃ですが、実は生きていてその後日本に渡ってきたという伝説が日本に残されています。その場所は山口県長門市。馬嵬で殺されそうになったところをこっそりと近衛隊長が逃したとも、実は亡くなったのは替え玉であったともいわれており、命からがら日本に小舟で流れ着いた楊貴妃は、その後少しして息を引き取ったと伝えられています。

亡くなった楊貴妃はそのまま長門市に葬られたとされ、二尊院(にそんいん/当時の名称は天請寺)には楊貴妃のお墓として五輪塔が建てられています。楊貴妃に縁があるということから女性守護・安産・子宝・縁結びなどのご利益があるとされていて、楊貴妃にあやかり、美しくありたいと願う人からも人気を集めているお寺です。二尊院には釈迦如来と阿弥陀如来が本尊として祀られています。

また、京都の泉涌寺(せんにゅうじ)にも「楊貴妃観音堂」というお堂があり、楊貴妃の観音像が安置されていると伝えられています。この観音像は1230年(寛喜2年)に、僧の湛海(たんかい)が中国から持ち帰ったもので、その見た目の美しさから「楊貴妃の没後、彼女をモデルにして玄宗が作らせたものである」と言い伝えられています。美人になれるご利益があるとされ、女性からの支持が厚い観音様です。

今なお多くの人に愛される楊貴妃

玄宗だけでなく、その悲劇性とドラマチックさから後世の多くの人に愛された楊貴妃。映画など創作物の題材となったのはもちろん、さまざまなものにその名が付けられるほど、今でも多くの人に親しまれています。

「唐の皇帝の妃」と聞くと縁遠い人のようですが、ライチが好きなど親しみのあるエピソードも。昔の人なので真偽不明の逸話も多いですが、それがかえって彼女のミステリアスさを引き立て、現代の人までもを引きつけているといえるでしょう。楊貴妃がどんな女性だったのか、想像を膨らませてみるのも楽しいですね。