9月9日に他界した元近鉄バファローズの平野光泰。「ガッツマン」と呼ばれ多くのファンから親しまれた彼は、球団初リーグ優勝の立役者だった。

  • 「背番号9」平野光泰、ベンチでも常に声を出し近鉄バファローズをリーグ優勝に導いた(写真:近鉄バファローズ大全)

1979年6月、大阪球場で優勝をかけて闘った南海ホークスとの最終決戦。あの試合での「執念のバックホーム」。ガッツマン平野光泰の雄姿が私たちの記憶から消えることはない─。<『元近鉄・平野光泰が他界─。西本幸雄門下の情熱溢れる「ガッツマン」を誰も忘れやしない!』から続く>

■南海ホークスとの敵地での最終決戦

1979年パ・リーグ前期の優勝争いは、最後の最後まで縺れた。
シーズン大詰め、6月24日から始まった大阪球場での南海ホークスvs.近鉄バファローズ3連戦。近鉄が優勝するには3つ勝つか、2勝1分けしかなかった。1つでも負ければ阪急ブレーブスに優勝をさらわれてしまう。
大一番、球場には熱気が満ちていた。こんな時、平野は燃える。

24日の初戦は、石渡茂の先制3ランアーチ、その後に平野がタイムリー三塁打を放ち加点し7-5で勝利した。
翌25日の2戦目では、なんと平野が3ホーマーをかっ飛ばし10-2で大勝。近鉄は優勝への望みをつないだ。
そして迎えた26日の最終決戦。近鉄の先発マウンドに上がった村田辰美が好投し1-1の同点で試合は8回裏に進む。ここで村田は2死二塁のピンチを背負った。
南海の広瀬叔功監督は、前年まで近鉄の選手だった阪本敏三を代打として起用する。二塁ランナーは俊足の定岡智秋。外野手の前に転がるヒットが出れば1-2と南海に勝ち越されてしまう場面だ。そうなれば近鉄の優勝は遠のく。

阪本は村田が投じた渾身のボールを打ち返した。だが、当たりは決してよくない。それでも飛んだコースはよく、セカンド永尾泰憲とショート石渡の間を抜けていく。
「やられた!」
ベンチで監督の西本幸雄は、そう思った。
「目の前が真っ暗になった。これで終わりかと思った」とキャッチャーの梨田昌崇も、後に述懐している。
だがこの時、センターの平野は諦めていなかった。猛然と転がるボールに向かってダッシュ、
拾い上げると体勢を立て直そうともせず渾身のバックホーム。ボールはノーバウンドで梨田のミットに届いた。

■「人間の逞しさ、努力の尊さだ」

ホームベース上に砂埃が舞い上がる。
主審・久喜勲のコールは「アウト!」
一瞬静まり返った3塁側のスタンドから大歓声が湧き起こった。アウトになった定岡も、キャッチャーの梨田も喜怒哀楽を表す前に「信じられない」という顔をしていた。
大騒ぎになった近鉄ベンチ。そんな中で西本は椅子から立ち上がれないでいた。

9回の攻防は、ともに「0」。試合は引き分けとなり、近鉄の前期優勝が決まる。プレーオフで近鉄は後期優勝チームの阪急を3タテ。球団創立以来、初めてのリーグ制覇を果たした。

  • 1979年6月26日・大阪球場「執念のバックホーム」の瞬間。梨田がミットを高く差し上げ、この直後に「アウト!」とコールされる(写真:近鉄バファローズ大全)

現役引退後に、あの場面を振り返って平野は言った。
「絶対に負けたくないという気持ちだけでホームに投げた。オヤジ(西本監督)のもとで俺たちは厳しい練習に耐え、優勝を目指してきたんだ。諦めるわけにはいかなかった。でも、あれをもう1回やれと言われてもできないよ(笑)」

前進守備は敷いていた。それでも阪本のバットから放たれた打球はゆるく、平野がボールを手にした時に俊足の定岡は三塁ベースを駆け抜けていたのだから、常識的に考えればアウトになるはずがない。平野の執念が奇跡を呼んだとしか言いようがなかった。
あの試合から20年後に私は宝塚市にあった西本の自宅を訪ねた。話は「執念のバックホーム」に及ぶ。

西本は言った。
「あの時、私は苦しかった。チームを任されて6年目、まだ結果を出せずにいたからね。阪本も生活をかけてバットを振った、それがセンター前に転がる。私は一度諦めたよ。でも平野は諦めていなかった。大した奴だ。
この世界は非情だ。力のない者は、どれだけ頑張っても勝てないと言われる。努力だけでは才能を打ち破れないと。だが、時として人間の気力がそれを超越することもある。
あの返球でアウトになった時、私は心が震えて椅子から立ち上がれなかった。平野が我々に教えてくれたのは、人間の逞しさ、努力の尊さだ」

「お荷物球団」と呼ばれ続けた近鉄のリーグ初優勝。それをもたらしたのは、「執念のバックホーム」だった。
情熱で奇跡を呼んだ男・平野光泰。
彼が死しても、あの掛け声がファンの鼓膜を震わせている。
「ガッツマン、ガッツマン、平野! ガッツマン、ガッツマン、平野!」

文/近藤隆夫