1789年から1799年の間に起こったフランス革命。学校の世界史の授業はもちろん、漫画『ベルサイユのばら』や映画『マリー・アントワネット』など数々の作品にも登場する、有名な出来事です。

フランス革命にちなんだ7月14日は「革命記念日」として、、現在もフランスの祝日になっていたり、封建制度の廃止や人権宣言がなされたりと、その後の歴史に大きな影響を及ぼしています。

本記事ではそんなフランス革命の流れと原因、その後の出来事などをわかりやすく解説します。

  • フランス革命について、その内容や原因をわかりやすく説明していきます

    フランス革命について、その内容や原因をわかりやすく説明していきます

フランス革命とは何かをわかりやすく解説 - 絶対王政の崩壊

16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパに諸国には国王が統治する絶対王政が敷かれていました。王族や聖職者、貴族と、市民階級という身分差を前提としたこの政治形態は、不公平さに怒れる市民が起こしたフランス革命によって倒されます。

10年にわたるフランス革命では、さまざまな事件や出来事がありました。

フランス革命の概要を簡単に

フランス革命とは、18世紀後半(1789年〜1799年)にフランスで起きた市民革命運動のことで、後ほど説明するようにバスチーユ牢獄襲撃からナポレオンによるクーデターまでの一連の流れを指します。

この革命によって、フランスは近代民主主義国家体制を築いていくことになります。スローガンの「自由、平等、博愛(Liberté, Egalité, Fraternité)」も有名です。

フランス革命の一連の流れ

フランス革命の全体像がつかめたら、次はポイントとなる出来事を時系列順に、確認していきましょう。一つ一つの事件や出来事を詳しく見ていくと、フランス革命の流れや人々の動きがわかります。

すべて理解するのが難しい場合は、興味のある項目から見ていくのもいいでしょう。

1789年 : バスチーユ牢獄襲撃

事の起こりは1789年5月、財政悪化に対する議論のため、ベルサイユにて、第一身分である聖職者、第二身分である貴族と、第三身分である市民が一堂に会する「三部会」が召集されたことです。しかし議決方式などをめぐって第一身分・第二身分と第三身分とが対立し、業を煮やした第三身分は、独自に三部会に代わる国民議会(後に憲法制定国民議会に改称)を設立し、事態は混沌さを増します。

そして1789年7月11日、国王ルイ16世は事態の責任を取らせるため、財務総監だったネッケルの罷免を発表します。ネッケルは当時、市民の信頼を得ていました。

市民はネッケルの罷免に反発し、7月14日、パリの東端に築かれた、城塞であり牢獄であるバスチーユ牢獄を襲撃し、陥落させます。また、バスチーユ牢獄にあった弾薬や火薬などの武器も民衆の手に渡ります。こうして、10年におよぶフランス革命が始まったのです。

当時、政治犯が収監されていたバスチーユ牢獄は、国王の絶対権力のシンボルでした。この襲撃には民衆だけでなく、国王軍から離反したフランス衛兵の一部も加わったとされています。この結果囚人たちは解放され、旧体制のパリ市長や守備隊長は殺されました。

なお市民がバスチーユ牢獄を襲撃した7月14日は、現在もフランスの祝日(革命記念日)として定められています。

さてこのバスチーユ牢獄襲撃の後、同年8月26日には、憲法制定国民議会によって、人間の生まれながらの自由と平等、国民主権などが記された人権宣言がなされました。

1791年 : ヴァレンヌ逃亡事件

革命の勃発以降、議会とともにベルサイユからパリに移された国王ルイ16世は権力の回復を図りましたが、その試みはいずれも成功しませんでした。そしてついに1791年6月20日、国王一家がオーストリアへ逃亡を図ったのが「ヴァレンヌ逃亡事件」です。

反革命派と、マリー・アントワネットの愛人だったとされるフェルゼンが加担したこの事件は、手違いと油断から失敗に終わります。結局、国王一家は北東部国境に近いヴァレンヌにおいてとらえられて、パリに送還されました。そしてこの事件をきっかけに、国王は民衆からの信頼を完全に失ったのです。

同年9月3日に制定された「1791年憲法」では、前述の「人権宣言」が序文として採択され、国民主権の原則と君主主権の排除などが定められました。

1792年 : 八月十日事件

1792年、国王ルイ16世は外国と手を結んで革命側に圧力をかけようと試みます。革命側はこれに刺激されて国王廃位の請願を出し、8月9日にその期限が切れたため、8月10日に国王のいるチュイルリー宮を襲撃しました。これが八月十日事件です。八月十日事件により事実上王制が廃止され、9月からは正式に第一共和制が開始されました。

1793年 : ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑

こうして国王一家はタンプル塔へ幽閉され、「祖国と革命に対する裏切り」という理由で、1793年1月21日にルイ16世が処刑されます。そして1793年10月には、王妃マリー・アントワネットの処刑が執行されたのです。

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1793年~1794年 : ロベスピエールの恐怖政治

1793年、それまで革命側の主体だったジロンド派が追放されると、ロベスピエールの率いるジャコバン派が権力を握りました。

ロベスピエールは「国家のすべての敵と戦う」として、多くの反革命派を処刑し、亡命貴族からは財産を没収しました。裁判なしで刑が執行された処刑も多く、獄死した人も含めると死者は4万人にもなるとされています。なお処刑道具として有名なギロチンはこの時期に発案され、恐怖政治のシンボルともいわれています。

そんな中、1794年に独裁の緩和を目指したテルミドールのクーデターが起き、ロベスピエールもまたギロチンによって処刑されました。

1799年 : ナポレオンのクーデターと新政権の設立

ロベスピエールの失脚後、テルミドール派が政権を握り、1795年10月27日に総裁政府が設立しますが、不安定な情勢が続きました。そこで市民は、軍隊とその指導者であるナポレオンに信頼を寄せるようになります。

そしてついに1799年11月9日、ナポレオンがブリュメールのクーデターにより政権を奪取し、フランス革命は終焉(しゅうえん)を迎えます。

その後ナポレオンは1804年に皇帝に即位し、フランス最初の帝政である第一帝政を行います。ナポレオンは対外戦争の勝利によって威厳と権力を強めましたが、対英大陸封鎖、また1812年のロシア遠征の失敗をきっかけに没落していきます。

フランス革命が起きた原因

  • フランス革命が起こったのには、主に3つの原因があるといわれています

    フランス革命が起こったのには、主に3つの原因があるといわれています

長い年月をかけて終結したフランス革命。その間には何人もの権力者が争い、命を落としました。

どうしてフランスで、革命が起きたのでしょうか。その背景にはどんな歴史があったのでしょうか。ここではフランス革命が起きた原因について、見ていきましょう。

フランス革命の時代背景

フランス革命が起きた背景にはさまざまな要因が考えられますが、ここでは「身分制度」「財政」「啓蒙(けいもう)思想」の3つを解説していきます。当時、フランス国民の間に渦巻いていた不満やヨーロッパ全土で広まり始めていた新しい思想についてまとめました。

身分制度・アンシャン=レジームの行き詰まり

16世紀から18世紀のヨーロッパでは、国王を頂点とした絶対王政が敷かれていました。特にフランスでは、ルイ14世の時代に絶対王政がピークを迎えます。

国王を頂点とし、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(市民)からなるこうした封建的身分制度を、アンシャン=レジーム(旧体制)と呼びます。アンシャン=レジームにおいては、第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が特権階級とされ、免税特権を持っていました。自分たちの納めた税金が特権階級の生活に使われることに、第三身分(市民)の不満が高まっていったのです。

第三身分は、前述のように三部会で特権階級と対立したのをきっかけに国民議会を設立し、フランス革命の中心を担っていくことになりました。

財政の悪化

1775年~1783年にかけて、アメリカの13の植民地は、イギリスの支配に対抗しアメリカ独立戦争を起こしました。イギリスを宿敵とするフランスは、アメリカを経済的、軍事的に支援します。

しかしこのことは、フランス財政の悪化を招きます。さらに豪華な宮廷の生活による負債や、イギリスから流れ込んだ安価な商品による経済的危機などが重なり、第一身分・第二身分への課税が要請される事態に陥りました。

しかし、特権階級はこれに反発。議論を行うため、ネッケルの提言により三部会が招集されました。第三身分は自分たちが有利になるように議席を増やすことを要求し、ネッケルによってこれが承認されます。

ところが議決方法などにより身分間の対立が深まってしまい、このことが、フランス革命の引き金となったのです。

啓蒙思想の広まり

当時のヨーロッパでは、モンテスキューやルソーの啓蒙思想が広まりつつありました。啓蒙思想とは、伝統的な偏見を打ち破り、人間の可能性を理性、合理主義によって切り開こうとする考え方です。

啓蒙思想において、絶対王政を前提とするアンシャン=レジームは批判の対象でした。例えばモンテスキューは、貴族制を生かした君主制を理想として、ルイ14世の絶対王政を批判しています。ルソーは、個人が契約によって平等な権利を持つ人民国家を構想しました。

こうした思想は、ブルジョワジー、つまり第三身分(市民)の間にも浸透していったのです。

フランス革命の影響・歴史的意義

フランス革命は当時の社会に変革をもたらしただけでなく、現代にも大きな影響を及ぼしました。ここでは、フランス革命の歴史的意義について紹介します。

身分制度、封建制度の廃止

フランス革命によって王政が撤廃されたことにより、身分制度が廃止されました。このことによって税の負担は国民すべてが平等に担うことになり、封建制度が崩壊します。フランスでは第一次共和制が採用され、現在の資本主義の基礎を築きました。

人権宣言

1789年に採択された人権宣言は、正式には「人間および市民の権利宣言」と呼ばれます。その内容は啓蒙思想の影響を色濃く受けていて、権力の分立、租税の平等やその権利と義務、自由、所有権などについてが宣言され、現代社会の基礎となる考え方が広まりました。

人権宣言は「アンシャン=レジーム(旧制度)の死亡証書」と称されるように、近代社会の原理を表すものとして、後世にも大きな影響を与えています。

フランス革命のその後

フランス革命が終息した後のフランスの政治は、実はそのまま近代の体制へ移行したわけではありません。ナポレオンの即位によって始まる第一帝政から、再びブルボン家による王政復古が起きるまで、さらにその後を見ていきましょう。

皇帝ナポレオン1世の誕生

ブリュメールのクーデター後、実権を握っていたナポレオンは、前述のように1804年に皇帝に即位します。その後1814年に失脚するまでに、ナポレオンはヨーロッパ全土を支配下に治めました。

これは絶対王政ではないものの、事実上の専制、つまり上に立つ者が独断で行う政治制度の復活でした。同時代を生きたベートーヴェンは、ナポレオンの独裁的な政治体制に失望して、彼に共感して作曲していた「英雄」の献呈を取りやめたといわれています。

ナポレオンの失脚

ナポレオン退位のきっかけとなったのは、イギリスとの貿易を禁止した大陸封鎖や、ロシア遠征の失敗です。その後、1814年に退位してエルバ島に流されたナポレオンは、翌1815年に島を脱出し皇帝に復します。しかしワールテローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島へ流されてその生涯を終えました。なおこの短い再起のことを、「百日天下」と呼びます。

さてナポレオンが失脚したことで政権を握ったのは、なんとルイ16世の弟であるルイ18世でした。フランスの政権は再びブルボン家に移り、王政復古が起こったのです。

共和制から王政復古へ

最後に、フランスの政治体制を整理しておきましょう。

フランス革命以前、フランスはブルボン家である国王ルイ16世が統治する絶対王政下にありました。革命中の1792年から1804年のナポレオンの皇帝就任までを第一共和制と呼びます。

ナポレオンが皇帝になり、そして失脚する1814年までが第一帝政、その後のルイ18世とシャルル10世の時代が王政復古です。

この王政復古は1830年7月の七月革命まで続きます。その後、ブルボン家の支流であるオルレアン家のルイ・フィリップが統治する七月王政を経て、1848年の二月革命によって第二共和政が設立します。

さらに1851年末にはナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、1852年にはナポレオン3世として帝位に就くことで第二次帝政が始まります。この政治形態は、1870年に普仏戦争で解体されるまで続きました。

フランス革命は世界中に大きな影響を及ぼした

フランス革命が及ぼした影響は、世界に、そして現代にも残されています。一方で、革命時の混乱は多くの犠牲者を生み、その後も政治的な混乱は長く続きました。

フランス革命当時に市民の代表として立ち上がった第三身分のブルジョワジーは、その後に資本家となり、労働者であるプロレタリアと対立することになります。歴史は立場を入れ替えて繰り返され、時には後退しながら、少しずつ前に進みます。

それらを学ぶことによって、未来を生きる私たちの社会がどうあるべきかを考えるきっかけにしてみてくださいね。