若い世代は幼少期から、マンガやドラマ、映画などを通して、上司が部下に酷評されるシーンをたくさん見てきました。彼らにしてみれば、上司は「突っ込みどころ満載な存在」なのです。

けれども、そんな彼らが、自ら敬い慕う上司がいます。「尊敬できる」上司です。では、どんな人が「尊敬できる」上司なのでしょうか。

「年齢が上」は必ずしもアドバンテージにはならない

「地位や年齢が上だからといって、部下に慕われるわけではない」。そのことを痛感している上司は少なくないと思います。

「若い世代は何を考えているのか?」
「どうしたら部下が素直に指示を聞いてくれるか?」
「どうしたら信頼関係が築けるか?」

上司としての職務を果たそうと頑張ってはいるものの、空回りしているようで部下に響かない。

私のYouTubeチャンネル『大愚和尚の一問一答』には、そんな上司達からの悩みが届きます。

年上だから、という理由で、敬われる時代は終わりました。若い世代は幼少期から「お子さま」として大切に扱われてきました。彼らにしてみれば、年上は「敬い慕う存在」ではなく、「年下に気を遣うべき存在」なのです。

上司だから、といって、敬われる時代は終わりました。では、部下に慕われる「尊敬できる上司」とは一体なんでしょうか。それは「自分に厳しく、いつも平常心で、夢を見させてくれる」上司です。

逆に、尊敬されない上司は、「自分に甘くて、感情の起伏が激しく、未来を感じられない」上司などが連想されます。

部下は性別にかかわらず、年齢の上下にかかわらず、尊敬できる上司を敬い慕うのです。

若い世代を「与える側」にする大いなる効用

報告・連絡・相談をしない。言われたことしかしない。仕事が遅い。何を考えているのかが分からない。若い世代に対する上司の不満は、尽きることがありません。

では、若い世代の部下たちは、やる気がないのでしょうか? 能力がないのでしょうか? いいえ、決してそんなことはありません。

若い世代に、仕事に求めていることを聞くと、返ってくる答えの中に必ず含まれている単語があります。「やりがい」と「成長」です。そう、彼らは仕事を通して「やりがい」と「成長」を感じたいのです。

それならば、なぜ部下は思うように育ってくれないのか。ひょっとしたら、若い世代のやる気や能力を、知らず知らずのうちに抑えてしまっているのは、上司なのかもしれません。

私はよく、講演や研修を依頼されて企業に出向くことがあるのですが、部下に対する悩みを抱える上司の多くが、若い世代のやる気と成長の妨げとなっている現実を目の当たりにします。

部下のやる気と成長を抑えてしまう上司とは、「自称やさしい」上司です。「好きな上司」「理想の上司」のアンケートを見ると、その上位には必ずといっていいほど「やさしい上司」がランクインしています。流行りのやさしさに感化されて、やさしい上司になろうとしてしまうのかもしれません。

もちろん「やさしさ」が悪いわけではありません。問題は、やさしさの「動機」と「勘違い」です。「動機」が間違っている上司は、部下に「好かれよう」とします。好かれようとしてやさしくするのです。あるいは、厳しくして辞められても困るから、という理由で「ご機嫌取り」をしてしまうのです。

「勘違い」をしている上司は、何でも教えてあげることを、やさしさ、だと勘違いして、部下に「与えすぎる」傾向にあります。本当の「やさしさ」とは、自分の思いを相手に押し付けることではなく、相手の望みに寄り添い、支援することです。

部下の望みは、「やりがい」と「成長」です。ですからこの場合、部下の成長を支援する姿勢を忘れないことが「本当のやさしさ」なのです。

人が育つためには、愛情ある厳しさが必要です。厳しさとは決して、荒い言葉で叱咤することではありません。厳しさとは、一貫性のこと。

部下の成長のために、「愛情」をもって厳しくする。善いことは善い。ダメなことはダメ。果たすべき責任は果たす。当たり前のことを、当たり前として示す、一貫した態度のこと。一貫した態度でいるためには、上司自身が、部下の言動にいちいち感情を揺さぶられないことです。

部下を見ていると、詰めが甘い、仕事が雑、態度が大きい、声が小さい、気が利かないなど、イライラ、ハラハラします。だからつい、愚痴ったり、教えすぎたり、「自分がやった方が早い」と、部下がやるべきことを上司がやってしまうのです。気にしすぎ、与えすぎです。

最終的に求めたい状態、そこに向けてなすべき作業を、的確に、丁寧に伝えたら、それ以上、与えすぎない。助けない。話しかけない。放っておく。

仏教では、そのような態度のことを、「捨(しゃ)」と呼びます。「捨」とは、ジッと見守ること。無視するわけでもなく、放任するわけでもなく、あれこれ口出しせずに、ジッと見守ること。

もちろん最初のうちは、失敗もあると思います。それでも、一貫して「捨の心」を保ち、仕事を任せていく。いざという時には、上司自らが責任をとる覚悟で、次々ハードルを超えさせていくのです。

誰しも、自力でハードルを超えると「やりがい」を感じます。チャレンジと反省を繰り返しながら、試練を超えていくうちに「成長」します。成長すれば、仕事がおもしろく感じられます。

子どもは与えられる存在です。与えられる人から、与える人になると自立します。経験の浅い部下は、与えられる存在です。与えられる側から、与える側になると自立します。

「与えられる」より、「与える」ほうが、充実感がある。それが、やりがいです。
「与えられる」より、「与える」ほうが、おもしろい。それが、成長です。

そのことを実感した人間は、受動的な人から、能動的な人に変容するのです。

テレワーク、わからないIT知識は強がらずに聞くが勝ち

コロナ禍にあって、多くの会社でテレワークが採用されるようになりました。Zoomだの、AI(人工知能)だの、IT(情報技術)だの、とテクノロジーの進化は凄まじいものがあって、「正直、ついていけない」と感じている上司も多いことでしょう。

けれども、こんな時代の転換期こそ、頼りになるのは若者です。カッコつけず、強がらず、どしどし若い人たちに教えを乞いましょう。お釈迦さまも、分からないことは、弟子たちに聞いたと言われています。お釈迦さまには10大弟子と呼ばれる弟子がいました。

それぞれ、1. 舎利弗(しゃりほつ)、2. 目連(もくれん)、3. 大迦葉(だいかしょう)、4. 須菩提(しゅぼだい)、5. 富楼那(ふるな)、6.迦旃延(かせんねん)、7. 阿那律(あなりつ)、8. 優波離(うぱり)、9. 羅睺羅(らごら)、10. 阿難(あなん)の10人です。

弟子たちにはそれぞれ、突出した能力があり、その能力を存分に発揮して教団を支えていました。お釈迦さまが、弟子たちの感性や能力を認め、大いに活かしたのです。

例えば舎利弗は、問題解決能力にすぐれた力を現しました。そこでお釈迦さまは、舎利弗を智慧(ちえ)第一と認めて、何か難しい問題が起こると「これは舎利弗に聞いてみましょう」と、弟子に問題解決を任せるのです。

同じく、須菩提は、説法(せっぽう)第一と呼ばれ、お釈迦さまの教えを、わかりやすく、巧みに人々に伝えて布教に尽力しました。

また、阿難は、多聞(たもん)第一と呼ばれ、お釈迦さまに側近として、誰よりもお釈迦さまのお説法を聞き、その内容を暗記していました。そしてお釈迦さまがお亡くなりになった後、師の教えが忘れ去られないよう、間違って伝わらないよう、「結集(けつじゅう)」と呼ばれる教えの確認作業で、大活躍したのです。

上から下へ、という一方的な関係ではなく、立場を超えて、頼り、頼られる、相互依存の関係を築くことが、組織の繁栄に繋がります。部下を頼ることによって、部下も活躍の機会を得ることができます。

分からないことは、立場の上下にこだわらず、遠慮せずに聞く。素直に、謙虚に学ぶ姿勢。それもまた慕われる上司の魅力なのです。テレワーク、わからないIT知識は、強がらずに若い世代に聞きましょう。