それは、まさかの惨事だった。いまから29年前、1992年バルセロナ五輪を目前にして柔道金メダル最有力候補の古賀稔彦が、練習で吉田秀彦と乱取りをした際に左ヒザに大ケガを負う。

  • 背負い投げを武器に五輪で金メダルを獲得するなど柔道界で一時代を築いた古賀稔彦。(2005年撮影/真崎貴夫)

金メダルはおろか出場も絶望的...そう誰もが思った。この苦境を「平成の三四郎」は、強靭なメンタリティで乗り越えようとする__。

■決戦10日前...惨劇の瞬間

「ぐわーっ!」
悲鳴を上げながら古賀稔彦が、青畳の上に倒れ込んだ。表情をゆがめながら左ヒザに手をあてる。のたうちまわりながら今度は両手で顔を覆う。周囲にコーチや他の選手たちが集まってきた。乱取りの相手をしていた吉田秀彦が茫然とした表情で言う。
「ボキッと音がしました」

この衝撃的な映像を観た人も多くいることだろう。
1992年7月19日(現地時間)、日本選手団が五輪に出場するためにバルセロナ入りした。古賀は、選手団の団長だった。そして、翌20日(同)、バルセロナ市内のパドレナセンターで柔道日本代表の公開練習が行われる。

古賀は、吉田と組み合った。互いに緊張感を持って技をかけあう。そんな中で事故は起こった。古賀が一本背負い投げを仕かけたその時、右足を滑らし、それでも踏ん張ろうとして左ヒザを内側にひねったのだ。
日本の道場のものに比べて、青畳が滑りやすかったのかもしれない。

膝内側側副靭帯損傷__。
全治には1カ月半以上かかる大怪我だった。
多くのカメラの前での惨劇。このニュースは日本にもすぐに伝わった。バルセロナ五輪開幕の5日前、柔道男子71キロ級の試合日までも、あと10日しかない。
「金危機、出場絶望的」と報じられた。

この後、古賀は周囲の手を借りて選手村に戻り、部屋のベッドの上で傷めた左ヒザを冷やし続ける。当然、翌日からも練習には参加できない。

監督の上村春樹、そして吉村和郎らコーチ陣も、古賀の出場は難しいだろうと感じていた。衝撃の瞬間を現場で目の当たりにし、そう思わざるを得なかったのだ。試合当日までにどこまで回復できるか、もし青畳の上に立てたとしても勝つのは無理だ、と。
だから、こう話し合っていた。
「俺たちからは欠場しろとは言えない。でも、古賀の方から『闘えません』と言ってくるだろう。その時は、ちゃんと受け入れよう」

古賀欠場濃厚の暗いムードが漂う。
しかし、古賀が「闘えない」と口にすることはなかった。絶体絶命の状況下でも金メダル獲得を諦めてはいなかったのだ。

■生きるか死ぬかの闘い

後に当時を振り返って、古賀はこう話した。
「古傷があった左ヒザを傷めた直後は、何も考えられませんでした。ただ痛くて痛くて。20歳の時にソウル(五輪)で負けたことが悔しくて『絶対に金メダルを獲る』と心に誓い、それからの4年間、自分に嘘をつかない努力をしてきたんです。日本での最終合宿を終えて上々のコンディションでバルセロナに来た。なのに…そう思うとガッカリしました。

でも少し時間が経って冷静になると、こんなことに負けるわけにはいかない、いや、絶対に負けないぞと思えたんです。私は、中学・高校の6年間を講道学舎で過ごしました。そこの指導者には戦争を経験している方もいらっしゃいましたから、『生きるか死ぬかの闘いをせよ』とよく言われたんです。

そうだ、生きるか死ぬかの闘いをしようと決めました。そんな時、ケガなんて関係ないでしょう、生き抜くしかない。イメージも出来上がっていたんですよ。カラダは傷だらけでも最後は自分が勝って絶叫しているシーンまで(笑)」

彼は続ける。
「ただ、大変だったのが減量。75キロくらいで現地に入って、それから練習をしながら(規定の71キロまで)4キロを落とす予定だったんです。それが動けなくなったので食事を制限するしかありません。部屋の壁に紙を貼って、そこに毎日、体重を書き込みました。単純計算で1日に400グラムずつ落とさないといけないんです、動けない状態で。ほとんど食べることはできませんでしたね」

古賀と吉田は講道学舎の先輩後輩である。歳は2つ違い、苛烈な環境を生き抜き苦楽をともにしてきた。当時、古賀は金メダルの最有力候補、対して78キロ級代表の吉田には、それほど多くの期待は寄せられていなかった。そして、ふたりは選手村で同部屋。

古賀の惨事は、ふたりの乱取り中に起こった。そのため、吉田が古賀にケガを負わせたように思われがちだが、そうではない。技を仕掛けた古賀が足を滑らせたことが原因。それでも、吉田は責任を感じていた。
(大変なことを起こしてしまった)と。
部屋の中で古賀先輩の痛々しい姿を、心苦しく見守っていた。

大ケガをした夜、そんな吉田に古賀は言った。
「秀彦、俺な、これで金メダルを獲れるよ。うん、絶対に獲れる」
吉田は驚いた。
(なんて心の強い人なんだ)。
暗くなっている後輩を気遣っての言葉でもあっただろう。だが、それだけではなかった。「平成の三四郎」は、いかなる状況においても勝負を捨てず、己を信じることができる男だったのである。

(次回に続く)

文/近藤隆夫