「リーフ」がカー・オブ・ザ・イヤーを辞退
日産にとって、今回の無資格検査不正問題が明るみに出たことにより、その対応のまずさが信頼性失墜の傷口を広げる結果となった。
この問題が表面化した時、9月27日の国土交通省における謝罪会見に出たのは西川社長でも役員クラスでもなく、部長クラスであった。週末を挟んだ翌月曜日の10月2日には、西川社長が国交省で会見しようとしたところ、国交省から断られて横浜本社に場所を変更。再発防止策を説明したが、その後も複数工場で無資格者が検査し続けていたことで、リコールの追加という事態にもなる悪循環に至ったのである。
これにより、日産は新型電気自動車(EV)「リーフ」でカー・オブ・ザ・イヤーの選考を辞退したり、東京モーターショーを主催する日本自動車工業会で会長を務める西川社長の自粛により、豊田章男トヨタ自動車社長に代行を依頼したりといったように、大きな犠牲を払うこととなった。
検査問題はいつから常態化していたのか
西川社長も3度目となった11月17日の会見で、「初動対応のまずさや、事態を十分把握せず現場で起こっていることの認識が甘かったことで、事態が大きくなった」と反省する言葉を繰り返した。
日産にとって今回の問題は、「工場の仕組みや目標が、現実とギャップのある形で長年放置されていた。分かる限りでは1989年に追浜工場で(始まったとの認識だが)、さらに10年前頃にさかのぼる長い年月で常態化していたようだ」(西川社長)というように、旧・日産時代から常態化していたのである。
つまり、ゴーン体制に移行してからではなく、それ以前から現場の最終完成検査がずさんだったということである。それでは、ゴーン体制が長く続く中で、ゴーン経営陣は生産現場をチェックできなかったのか、ということでもある。
1999年に日産がルノーと資本提携してルノー傘下に入り、ルノーからゴーン氏が送り込まれ、当初は最高執行責任者(COO)として旧・日産時代のしがらみを断ち切り、コミットメント経営でV字回復させた。これがゴーン体制下の日産である。
労働組合と経営サイドの確執や主導権争いが、旧・日産破滅の大きな要因ともいわれたが、生産や販売現場のしがらみを断ち切ったはずのゴーン経営が、今回の問題を見逃していたことでの失態も指摘されるのである。