テレビ局に落ちて脚本家に

――監督としてデビューする前は、ずっとシナリオを書いていたそうですね。

脚本家になりたくて、ずっと脚本の勉強をしていました。きっかけは、テレビ局の就職活動で失敗したこと。ドラマ部に入りたかったんですが、狭き門で入れず。でも、やっぱり諦められなくて。次の年も受けようと思って、それまで時間がもったいないので、脚本の勉強をすることにしたんです。それをやりはじめたら、結果ハマってしまった。脚本が面白くて、テレビ局に入らなくてもいいやとなっちゃったんです(笑)。

――脚本のどんなところに惹きつけられたんですか?

「脚本が映像になる」という当たり前のことに触れて衝撃を受けました。僕が書いた通りに役者が動いてくれるというのも、なんだか不思議でした(笑)。だから、映画に限らず、対象はドラマでも何でもよかった。自分の根本にあるのは、「誰かを楽しませるものを作りたい」。そこを突き詰めていくと、脚本からも外れちゃって。CMだろうが、PVだろうが、「映像であればいいや」となったんです。

――前作を発表されたのが2012年。それ以降で映画を撮れるチャンスはなかったんですか?

脚本の仕事は結構やっていて、監督の仕事はいくつかあったんですけど、どれも成立しませんでした。脚本まで書いて、「先方の返事待ち」で……あれ? 何年待ってんだっけ? みたいな(笑)。時間の無駄遣いで終わることが本当に多いんですよ。めっちゃ苦労したのに、ギャラももらえないことも多々あって。

――今回の作品は、かなり前から温めていたんですか?

2012年の「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)に入選したんですが、入選監督を対象に行われるシナリオコンペ「スカラシップ」をどうしても獲りたかった。自分の作品に興味を持ってくれる人が増えるので、「スカラシップ受賞監督」としてデビューしたいという思いがあったんです。でも、『哀愁しんでれら(仮)』は選ばれませんでした。あれから4年。発表の場もなかったんですが、今回のTCPで選んでいただけました。

「ボツにする」を癖にしたくない

――PFFで落選しても諦めなかったんですね?

やっぱりそれだけの時間と労力がかかってまいすから(笑)。新しいアイデアは、いくらでも出せます。でも、考えたものを、ボツにするというのを癖にしたくないんですよね。ちゃんと形にしたい。自分の考えたものは責任を持って形にする。そこは、本当に大切にしていることです。

――阿部プロデューサーからは結末を変えたほうがいいという意見もありましたね。

どうしましょうかね(笑)。いろいろ検討はしているんですが、一方で、「クライマックスは変えない方が良い」という意見もあって。ラストまでを丁寧に描写を組み立てたり、積み上げ方をもう一度考え直したりした方がいいのかもしれません。

シナリオライター的な意地みたいな話になるんですが、ラストを丸っきり変えてものすごくいい映画になった時に、阿部さんに「ね? 僕の言った通りでしょ?」と言われてしまう(笑)。

そういう意味でも、このラストは変えちゃいけない。変えないで傑作を作ることが使命、そこを乗り越えることが自分に課されていることだと思います。

"埋もれない方法"の追求

――さきほど、キャスティングへの熱い思いをうかがいました。自分の中でもかなり注目度が高まりました(笑)。

ここはかなり意見を戦わせようと思っています(笑)。正直、物語はいろいろな人たちの意見を聞いてうまくやっていった方がいいと思っているんですよね。でも、キャスティングは違う。こだわっていきたいと思っています。

僕が考えたたくさんの作品の中で「埋もれない方法」。今すでにある方程式で作っていったら、この映画は誰の目にもとまらなくなってしまう。その方程式を外した方が人の興味に引っ掛かると考えています。

『シン・ゴジラ』は想像ができなかった。庵野さんが撮ると聞いて見た、あの予告編。全く内容が分からず。そして、観た人は大絶賛しながら、1回目ではセリフを聞き取れないから、もう一度劇場へと足を運ぶ。そして、2回目でやっと分かるみたいな(笑)。

絶対に埋もれない作品を作ります。

■プロフィール
渡部亮平(わたなべ・りょうへい)
1987年8月10日生まれ。愛媛県出身。2010年の第23回シナリオ作家協会大伴昌司賞で佳作を受賞。同年の毎日放送ドラマ『アザミ嬢のララバイ』の第5話で脚本家としてデビューする。自主制作の映画『かしこい狗は、吠えずに笑う』で監督としてもデビューし、ぴあフィルムフェスティバル「エンタテインメント賞」「映画ファン賞」をはじめ、数々の映画賞を受賞。これまで手掛けた脚本は、ドラマ『セーラーゾンビ』(14年)、『東京センチメンタル』(16年/監督・脚本)、『時をかける少女』(16年)、映画『3月のライオン』(17年)など。