突然だが、JR相模線という路線があることをご存じだろうか。神奈川県南部の茅ヶ崎駅から、寒川、厚木などを経て、東京都町田市と境を接する相模原市緑区の橋本駅までの、およそ33.3kmを結ぶ路線だ。今回はこの相模線の今はなき支線、「西寒川支線」を巡る旅をするとしよう。
今はなき路線は「一之宮緑道」に
そもそも相模線は、平成3(1991)年になってようやく全線が電化された、いわゆるローカル線だ。首都圏の鉄道は東京都心から放射線状に延びる路線は利用客が多いが、それらの路線を縦につなぐ南北のラインは弱い。相模線もそのひとつと言えるだろう。
その相模線に、かつて途中の寒川駅から西寒川駅まで、1駅わずか1.5kmの支線が存在したことは、今となっては知る人も少ないだろう。この支線が廃止になったのは昭和59(1984)年の3月31日で、今から30年以上も前だが、路線跡が「一之宮緑道」として整備され、一部ではあるが当時のレールも保存されているのだ。今回は、寒川観光ボランティアガイドの森和彦さんにご案内いただきながら、"廃線の旅"をたどりたい。
寒川支線分岐点へ--謎の工作物の正体は?
JR寒川駅の改札を出ると、正面の窓からは丹沢の大山(標高1,252m)が大きく見える。まずは、駅南口側に階段を下り、線路沿いの細道を歩いて行こう。
2つ目の踏切「大門踏切」の手前で、右の線路脇に目をやると、何やらコンクリートの工作物がある。鉄道関連の遺構かと思い、森さんに尋ねると、付近の田んぼに水を供給するための用水路の蓋(ふた)だという。この先、鉄道の敷地の境界を示す石製の柵(さく)が、相模線の線路から弧を描くようにして左の方へ離れていくが、この場所が西寒川駅に向かう「西寒川支線」の本線からの分岐点だ。
ちなみに、この支線の正式名称は「寒川支線」だったが、相模線にはもうひとつ、通称「川寒川支線」という昭和6(1931)年に廃止された砂利運搬用の貨物専用線が存在したことがある。それと区別するため、本稿では通称である「西寒川支線」で統一する。
さて、石の柵に沿って進んで県道を渡ると、「ゲート広場」と名付けられた小さな広場が整備されている。広場に設置された信号機を模した道標に従い、「一之宮公園」と示された道へと歩を進めよう。いよいよ"廃線の旅"が始まると思うと、ワクワクしてくる。
西寒川支線の歴史
ここで、歩き始める前の予備知識として、西寒川支線の歴史を簡単に整理しておこう。相模線は、大正10(1921)年9月に私鉄の「相模鉄道」として茅ヶ崎と寒川間が開通したのが始まりだ。
現在、横浜と海老名を結ぶ相模鉄道(相鉄線)の路線は、「神中(じんちゅう)鉄道」という別会社としてスタートしたが、戦時中の昭和18(1943)年に相模鉄道と神中鉄道が合併。翌19(1944)年に現在のJR相模線の部分が国有化され、そのまま戦後、国鉄の路線になったという歴史がある。
相模鉄道は、開業当初は旅客輸送のみでは営業が成り立たず、コンクリート等の原料となる川砂利の採取による貨物運賃収入が旅客運賃収入を大きく上回っていたため、"砂利鉄"と呼ばれていたという。この相模川の砂利の採取のために敷設したのが、上述の川寒川支線と西寒川支線だ。ちなみに、西寒川支線が開通したのは大正11(1922)年5月10日であり、西寒川の先の四之宮が終点だった。四之宮は川向こうの平塚の地名だが、寒川側に飛び地があったのだ。
西寒川支線はその後、昭和15(1940)年頃から短い期間、旅客営業を行った時期があるが、戦後は再び貨物専用線となる。しかし、昭和39(1964)年には相模川での砂利採取が全面禁止され、"砂利鉄"としての役割を終える。
一方、西寒川駅付近が工業団地になったことから、昭和35(1960)年に旅客営業を再開し、昭和59年3月31日に廃止されるまで、茅ヶ崎~西寒川間の往復運転が行われた。とは言え、昭和59年の廃止時点で旅客列車は1日4往復しか運転されておらず、非常に細々としたものだった。
再び、廃線散歩に戻ろう。ゲート広場から歩き始めて5分ほどすると、実物の列車の車輪を使った"車止め"が現れ、その先200mほどにわたって線路が保存されているのが見えてくる。続いては、今も一之宮緑道に残された線路から在りし日を追いながら、ご当地グルメ「さむかわ棒コロ」を紹介しよう。