1992年生まれの「プラチナ世代」の一人である鹿島アントラーズ・昌子源が胸に秘める思いとは

名門・鹿島アントラーズを同期入団のキャプテン、MF柴崎岳とともにけん引するDF昌子源(しょうじ・げん)。1992年生まれの「プラチナ世代」の一翼を担う22歳は、ホロ苦い経験を含めたすべてを成長への糧としながら、日本代表でも確固たる居場所を築いていく。

公式戦16試合目でようやく手にした無失点勝利

長く、暗いトンネルのなかで一筋の光が差し込んできた。Jリーグを代表する常勝軍団のディフェンスリーダーを担ったがゆえに背負った、十字架の重さも少しだけやわらいだ。

5月12日から2日間のスケジュールで、千葉県内で行われた日本代表候補合宿に招集された昌子の心境を言葉にすればこうなるだろうか。

FC東京の敵地・味の素スタジアムに乗り込んだ同10日のJ1第11節。アントラーズは前半34分にMF土居聖真があげた虎の子のゴールを最後まで死守し、特別な勝利を手にしていた。

ACLを含めて16試合目を数えた今シーズンの公式戦で、初めて90分間を無失点で終えることができた。勝利を告げるホイッスルが鳴り響いた瞬間、昌子は両手を天へ突き上げながら雄たけびをあげている。

それまでの15試合で喫した失点は、実に「26」に達していた。勝てば決勝トーナメント進出が決まった5日のACLでも、FCソウル(韓国)に3ゴールを献上した末にグループリーグ敗退を喫していた。

「センターバックとしては、すごく気になる数字でした。リーグ戦で勝ったときも、最後に失点を許して喜びが半減することがあった。それほど失点に対してはシビアになっていた。もっと無失点にこだわって試合ができたんじゃないか、と思ってきたので」。

FC東京戦の直前に変えた"長い伝統"

プレミアリーグの名門、チェルシーからオファーを受けたことでスポットライトを浴びていたFW武藤嘉紀を擁する、FC東京の攻撃陣を零封した要因とは何か。

答えは大一番の2日前。失点の多さに思い悩み、打開策を探し求める選手たちに対して投げかけられた、トニーニョ・セレーゾ監督のこの言葉にある。

「セットプレーのときにゾーンで守ってみよう」。

アントラーズはチーム創設時から、マンツーマンで相手のセットプレーに対応してきた。選手それぞれがマークする相手を決め、文字通り「一人一殺」で臨むマンツーマンは責任の所在が明確になる。

対照的に選手が人ではなくエリアを担当するゾーンは守り方がはっきりする一方で、ある問題が頭をもたげることもある。昌子自身、ゾーンがもつ「もろ刃の剣」がまず頭に浮かんだという。

「マークということに対してちょっと無責任になるかなと。ただ、マンツーマンで守っているときでも、自分のところにボールがきたらはじき返せばいいのに、僕を含めた鹿島の選手たちは『自分がマークする相手に触らせなければいい』という守り方をしていた。ゾーンと言われて驚いたし、急造だったから本当に怖かったけど、何かを変えなきゃいけないとも思っていたので」。

アントラーズを去った偉大な先輩から授かった言葉

米子北高校から加入して5シーズン目。同期入団の柴崎がすぐにレギュラーに定着した一方で、昌子のリーグ戦出場は3年目まで「13」にとどまっていた。

ターニングポイントは2013年シーズンのオフ。アントラーズは長く最終ラインを統率してきた岩政大樹(現ファジアーノ岡山)との契約更新を見送り、フロント主導で世代交代を推し進めた。

後継者に指名された昌子へ、岩政はこんな言葉を授けてチームを去っている。

「お前の潜在能力は高い。自信を持ってプレーすれば、鹿島を背負えるセンターバックになれる」。

昨シーズンは全34試合に先発。的確なカバーリング能力と、明るいキャラクター、物おじしない度胸で守備陣を統率した昌子はチームが3位に食い込む原動力となり、日本代表にも選出された。

ともにワールドカップ代表に選出された岩政、そして秋田豊が背負ってきた『3』番を託された今シーズン。リーダーとしての責任が増したからこそ、失点渦を重く受け止めた。 豊富な語彙(ごい)と達者なトークでアントラーズのスポークスマン的な役割を務めてきた22歳が、FC東京戦までの数日間は沈黙を貫いたほどだ。だからこそ、完封勝利に偽らざる本音が口を突いた。

「これを機に、チーム全体の何かが変わったと思う」。

プラチナ世代の一員としての意地とプライド

FC東京戦では後半開始から投入されたFW前田遼一に、セットプレーから立て続けに決定的なシュートを放たれた。

「マンツーマンに戻したほうがいいんじゃないかと(柴崎)岳とも話していたところで、監督から『前田さんに1枚つけろ』と指示があったんです」。

ゾーンとマンツーマンの併用。自らの判断で左サイドバックの山本脩斗を前田のマーク役に指名し、元日本代表FWが与える脅威を封印した昌子だったが、成長するための反省点を掲げることも忘れない。

「監督にゾーンと言われたからゾーンを徹底するのではなく、ピッチのなかにいる僕たちが感じて、決断する勇気も必要だったかなと。監督に逆らうわけではないですけれども、危ないと思ったときに僕たちのほうからアクションを起こすことは個人としても、チームとしても大事なことだと思うので」。

1992年生まれの選手たちは、その稀有(けう)な才能から「プラチナ世代」と呼ばれる。FC東京のキーマン武藤も、決勝点を決めた土居も、キャプテンとしてアントラーズを束ねた柴崎も、そして昌子もその一員だ。

「とは言っても、僕は一歩も二歩も置いていかれている。ちょっとでも差を詰められるように、頑張っていかないと」。

決意通りに、武藤には最後まで決定的な仕事をさせなかった。

ワールドカップ・ロシア大会のピッチに立つために

ハビエル・アギーレ体制に続いてヴァイッド・ハリルホジッチ体制でも日本代表に招集され、3月のウズベキスタン代表戦で念願の初キャップを獲得した。

もっとも、新監督からは海外組と国内組とに分かれて行われたグループ面談において、ディフェンダーとして積み重ねてきたものに軒並みNGを突きつけられた。

「相手をリスペクトしすぎていると言われました。優しく当たりにいって、逆に相手にひじ打ちを食らっていると。試合中は常に強気でプレーして、激しくいきすぎたら試合後に謝ればいいとも」。

球際における闘争心だけではない。隙があれば常にパスを縦に入れる攻撃の意識、フィジカルの継続的な強化を含めて、ハリルホジッチ監督の期待を感じる昌子はいまではこう宣言している。

「ピッチの上に立てば、それこそ人格を変えてプレーしていくしかないと思っている。ロシア大会のピッチには僕たち(の世代)が立つという強い気持ちをもって、切磋琢磨(せっさたくま)しながら先輩たちに追いつき、追い越していきたい」。

フォワードからコンバートされたのは高校1年生の夏。ディフェンダーとしての経験の浅さをポジティブな姿勢と思考で補い、ホロ苦い思いを含めたすべてを成長への糧としながら、昌子は潜在能力を開花させていく。

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筆者プロフィール: 藤江直人(ふじえ なおと)

日本代表やJリーグなどのサッカーをメインとして、各種スポーツを鋭意取材中のフリーランスのノンフィクションライター。1964年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。スポーツ新聞記者時代は日本リーグ時代からカバーしたサッカーをはじめ、バルセロナ、アトランタの両夏季五輪、米ニューヨーク駐在員としてMLBを中心とするアメリカスポーツを幅広く取材。スポーツ雑誌編集などを経て2007年に独立し、現在に至る。Twitterのアカウントは「@GammoGooGoo」。