『GODZILLA ゴジラ』の日本公開がついに始まった。すでにアメリカをはじめイギリスや中国、オーストラリアなど、62の国と地域で初登場1位を飾っており、全世界の興行収入は累計500億を突破。日本でもその勢いを受けて公開週末の動員数はNo.1と、世界の怪獣王となったゴジラの"凱旋帰国"は好調なスタートを切ったと言えるだろう。

7月25日に日本公開された『GODZILLA ゴジラ』

しかし、「ハリウッドが作ったゴジラ」というと、日本のゴジラファンには苦い経験がある。1998年にローランド・エメリッヒ監督の手によって製作された最初のハリウッド版『GODZILLA』という「苦い記憶」である。そのため、「どうせ今回も同じだろう」と警戒心が解けないファンもいるのではないだろうか。正直に言えば、筆者もその一人だった。

だが、実際に映画を見た今となっては、それは「食わず嫌い」だったと反省せざるをえない。確かに突っ込みどころはある。不満が残る部分もある。だが筆者は、少なくとも今回のハリウッド版を歴とした「ゴジラ映画」であると認めたい。

改善された「ゴジラのデザイン」

1998年の前ハリウッド版でファンの神経を最も逆なでしたのは、ゴジラの造形だった。尻尾を空中に浮かせたまま高速でビルの谷間を移動する「デカいトカゲ」のようなデザインには、多くの人が「あんなのゴジラじゃない」と思ったはずだ。だが、今回のハリウッド版のゴジラは直立型でゆっくり動く日本のデザインを踏襲している。確かに、顎が張りすぎだろうとか、なで肩すぎるとか、突っ込みどころはあるけれど、それは見ているうちに気にならなくなる。最後は愛おしくなるほどである。

今回特にスタッフが力を入れたと思われるのは、ゴジラの「尻尾」だ。1954年に公開された第1作『ゴジラ』では、防衛隊の砲弾が地面に着弾する中をゴジラの尻尾が悠然と画面手前を横切るという円谷英二屈指の名シーンがあるが、あの重量感や愛嬌のある動きが今回のハリウッド版ではしっかりと再現されている。特に、海面から天に向かって振り上げられたゴジラの尻尾を船の甲板からの視点で見上げる、サンフランシスコ上陸時のカットは、ゴジラ史に残る新たな「尻尾の名シーン」といえるだろう。

受け継がれた「着ぐるみ」の動き

造形と言えば、当初はゴジラの動きは全てCGアニメーションで表現するつもりだったらしい。ところがどうしてもうまくいかず、途中から『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラム役やキングコング役で知られるモーションアクター、アンディ・サーキスに依頼し、彼が演じるゴジラの動きをCGに取り込むという手法に切り替えたという。「ゴジラの動きは動物ではないんだと気づいた」と監督のギャレス・エドワーズは語っている。

ゴジラの「非動物=人間臭い動き」は、日本のゴジラが着ぐるみで撮影されていたことからきている。そして着ぐるみは、これまで海外の一部映画ファンから「時代遅れ」「B級」とバカにされる格好の的だった。ところが、いざゴジラを作ろうとすると、着ぐるみの人間臭さこそがゴジラに欠かせない要素なのだと気づいたわけである。中島春雄や薩摩剣八郎ら、スーツアクターの先達たちが文字通り身体を張って築き上げてきた「ゴジラの動き」。それが、ようやく海外でも評価されたといえる。

脱「凶暴なモンスター」を果たした海外ゴジラ

では、肝心のストーリーはどうか。15年前に日本の原子力発電所で発生した謎の巨大地震。やがてそれは地震などではなく、太古の昔に生きていた巨大生物ムートーのしわざであることがわかる。そして、原発の放射能を吸って孵化したムートーを倒すためにゴジラが姿を現す、というストーリーだ。これを読むと、勘のいいゴジラファンはすぐに反応するだろう。「ゴジラのキャラクター設定が日本と真逆じゃないか」と。

1954年に誕生した初代ゴジラは、水爆実験によって太古の眠りから覚めた生物という設定だった。それなのに、今回のハリウッド版のストーリーでは、ゴジラは核が生んだものではない。むしろ核が生んだのはムートーの方で、ゴジラはそれを倒す役回りだ。この点を指して「こんなのはゴジラじゃない」と批判する気持ちは確かに理解できる。だが、筆者は大きく二つの点を評価することで、この批判を乗り越えたい。

まず一つは、ゴジラが元来もっていた「複雑さ」がきちんと表現されていること。これまでの「海外のゴジラ」というと、初の海外版として第1作を再編集して作られた『怪獣王ゴジラ』にしても、1998年版の前ハリウッド版にしても、ゴジラは単なる凶暴なモンスターとしか描かれていない。

だが前述のように、第1作のゴジラは人間を襲う怖い怪物というだけでなく、水爆実験によって住みかを追われた犠牲者という面ももっている。人間が水爆という兵器を作らなければ、ゴジラは海の底で平和に暮らせていたかもしれない。オキシジェン・デストロイヤーによって殺される第1作のラストシーンに、爽快感よりもむしろ悲しさを感じてしまうのは、そうした「哀れさ」があるからだ。本来のゴジラは、複雑で多面的なキャラクターだったのである。

今回のハリウッド版のゴジラは、確かにヒーロー的な役割を負っている。だが、それは「正義の味方」ということではない。ゴジラがムートーを倒すのはあくまで本能に従った結果であり、もし人類が「敵」だと見なされれば、ゴジラは容赦なく人類に牙をむくだろう。ゴジラ自身には「善」や「悪」などはなく、人類はただ彼の進む先を見守ることしかできない。言ってみればゴジラは台風や地震と同じ、人間にはコントロールできない巨大な「自然」そのものなのだ。このように複雑で大きなキャラクター像は、決して日本のオリジナルのゴジラと矛盾するものではない。

21世紀のファンにとっての「第1作」

そしてもう一つは、ずばりゴジラの「魂」と呼ぶべき部分が受け継がれている点だ。ギャレス・エドワーズ監督は「第1作『ゴジラ』を強く意識した」と語っているが、それは映画冒頭の原発事故のシーンに最も強く表れている。崩れ落ちる原子炉に吹き出す放射能。防護服を着た作業員。立ち入り禁止区域になる周辺の街。おまけに事故の原因は(ムートーのしわざとはいえ)地震だ。この一連のシーンを見て、2011年3月11日のことを連想しない観客はいないのではないか。少なくとも筆者は一瞬、自分が映画を見ていることを忘れてしまった。

1954年に第1作『ゴジラ』を見た観客も、似たような気持ちを抱いたのではないかと想像する。ビキニ環礁での水爆実験のニュース映像は、当時の人びとに相当なショックを与えたと聞く。劇中で何度も語られる「水爆」というキーワードによって、観客の頭の中ではゴジラときのこ雲の映像とが重なり、単なる娯楽映画だと思っていたものが急に自分たちの生活と地続きになるような怖さを覚えたのではないだろうか。

核兵器や原発といった科学技術の過剰な進歩に対する警鐘。これは第1作から絶えずゴジラが抱えてきたテーマである。1995年に公開されたシリーズ第22作『ゴジラVSデストロイア』では、「メルトダウン」という言葉が台詞に登場したこともあった。そして3.11を経た今、ゴジラの負っているテーマは60年前よりもむしろ深刻さを増している。そういう意味では、今回のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』こそが、我々21世紀のゴジラファンにとっての「第1作ゴジラ」になるのではないだろうか。

確かに細かい設定の違いはある。それぞれが抱く「ゴジラ像」と比較すれば、不満が残る点もあるはずだ。だがまずは、こんなにも日本のゴジラをリスペクトした作品を作ったという、スタッフたちの"志"を評価したい。それに、日本のゴジラファンの許容力をもってすれば、今さら『GODZILLA ゴジラ』を認められないはずがない。だって我々は、過去にゴジラが「シェー」をしようが、「怪獣ランド」の中で人間に囲われようが、ずっとゴジラを愛し続けてきたのだから。

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