TVや雑誌などで、主に東日本に住む人が「区別がつきにくい県」として挙げられる中に入っていることが多い「鳥取県」と「島根県」。本州の西端に近い山陰にあって、また、隣り合わせということもあるためだと思われるが、実は、かつて1つの県だったことがあったという歴史も尾を引いているという見方もあるのだ。
明治政府の施策のためだった
地元でも知らない人も少なくないという、この事実について鳥取県立公文書館の伊藤康総括専門員は「明治9年(1876)8月21日から明治14年(1881)9月12日までの5年間、確かに鳥取県は島根県になっていました」と話す。また、「この時の影響は、130年たった現在までも鳥取県に残っています」とも言う。
明治4年(1871)の廃藩置県によって生まれた最初の鳥取県は、「因幡国」と「伯耆国(ほうきのくに)」、そして飛び地としてあった「播磨国」の一部が合体したものだった。「兵庫県姫路市の東隣にある高砂市辺りも鳥取県だったということは、地元の人でも知ったらビックリするのでは!?」(伊藤さん)。
この「因幡国」は、今で言う「鳥取市」「気高郡(けたかぐん)」「岩美郡」「八頭郡(やずぐん)」、一方「伯耆国」は、「米子市」「倉吉市」「境港市」「東伯郡」「西伯郡」「日野郡」に当たる。つまり、因幡国は鳥取県の東側で伯耆国は西側ということになる。「同じ鳥取県でも東西では、言葉や習慣が異なっています」と伊藤さん。
こうして生まれた鳥取県だったが、明治維新で活躍した人物を輩出したのにも関わらず政府で重用されなかったことから、政府に不満を持つようになっていったという。「反政府的な県と思われたことも、『島根県とひとつにしてしまえ』という考えになったようです」(伊藤さん)。
大きすぎるため2つの県に戻された
こうして巨大な「島根県」が誕生し、県庁をはじめとして師範学校など主立った役所は、松江市に移された。だが、鳥取県の東端から島根県の西端まで総延長は320kmに及ぶ。「今の山陰本線ができたのが明治40年前後ですから、西にある松江市までは、馬か徒歩、海運しかなくて大変だったようです」と伊藤さんは言う。
また、県庁をはじめとする役所が移ってしまったことで、産業もおのずと松江の方に移っていき、どんどん鳥取は寂れていったという。それを見た地元の有志が立ち上がって「鳥取県再置運動」を行い、明治政府に働きかけて再び2つの県となった。伊藤さんは、「しかし、その5年間で鳥取県はかなりダメージを受けたように思います」と話す。
地域性が今でも残る
今でも鳥取県と島根県の間に「しこり」のようなものが残っているのは、こうした歴史的な背景もあったわけだが、実は、それぞれの県内でも、更に事情は異なっているという。「元は2つの国が合わさった鳥取県は、鳥取市がある東部と米子市や境港市がある西部では、島根県に対する意識も違います」(伊藤さん)。
実際、地理的にも距離的にも松江市に近いことから、言葉や習慣などは島根県人に近いものがあるという。「明治14年の鳥取県復活の際、県西部では島根県に残りたいという意見も強かったようです」と伊藤さん。ただし、島根県の方も、出雲国・石見国・隠岐国という旧国同士で、いまだに意見が違うことがあるそうだ。
鳥取県では島根県から分かれた9月12日を、「とっとり県民の日」と呼んでいるという。100年を遙(はる)かに超えても影響が残っていることを見ると、歴史を侮ってはいけない証拠と言えるのでは!?