30歳の若さで社長夫人という肩書きを手に入れる

経済力の豊かな男性と結婚したことで、女性のライフスタイルに変化が生じるということは少なくない。もっとも典型的なパターンは、なにかに目覚めたように高級ブランド品や宝石の類に興味を示すようになり、生活がみるみるセレブ志向になることだろう。独身時代に月給20万円未満で慎ましやかな暮らしをしていた女性ほど、このケースにはまることが多いという。結婚して金を得たことで、これまでの反動が起こるということだ。

そんな中、東京都内の某高級住宅街に住むFさんの奥様は、少し変わったライフスタイルになった女性だ。夫であるFさんは38歳の若さながら都内で飲食店チェーンを展開する実業家で、すなわち裕福な男性だ。そのFさんと結婚したことで、奥様はさっさとOLの仕事を辞め、30歳の若さで社長夫人という肩書きを手に入れたのだ。

Fさんが言うには、結婚後の奥様は日々の消費に対して妙に意識的になったという。金銭的な余裕が生まれたことで、生活の選択肢が一気に増えたからだろう。奥様は買う物にいちいち理屈やこだわりを求めるようになった、とFさんは振り返る。

健康促進の分野に消費の目を向けた夫人

その結果、先述したように高級ブランド品や宝石などに走る女性は多いのだろうが、Fさんの奥様はそうではなく、どういうわけか健康促進の分野に消費の目を向けた。"セルフメディケーション"という、耳慣れない思想にはまったせいだ。

Fさん曰く、最初は毎日の食卓にオーガニック食材が並ぶ程度だったが、"ナチュラルショップ"に出入りするうちに客同士のつながりからさまざまな健康補助サプリメントを共同購入するようになり、さらにフィットネスジムやヨガ教室に通い出すわ、マイナスイオンを発生させる最新型の家電を買いそろえるわ、いわゆる健康ブームに乗った。

赤ワイン中のポリフェノールに抗酸化作用や動脈硬化防止の効用があると話題になったときは、酒が弱いくせに高級ワインを毎晩飲み、かえって体調を崩したとか。「あれはポリフェノールどうこうの前に酒の飲みすぎだったと思いますよ」。Fさんはそう述懐する。

セルフメディケーションとは自分自身で日々の生活を管理し、人間の自然治癒力を高めていくことで、心身ともに健康で幸せな暮らしを手に入れようという思想である。

「健康は一朝一夕では手に入らない、日々の努力の蓄積が体質を作る」

奥様はそんなモットーを掲げながら、惜しむことなく健康にお金を投資した。平たく言うと、裕福な"健康オタク"にみるみる変化していったのだ。

Fさんは奥様の考え自体に異論を挟むつもりはなかった。そもそも、人間は誰しも健康を望む生き物だから、健康管理が重要だと説かれたら反論のしようがない。Fさん自身はあまり興味がないことだったが、その考えが正しいということは理解できるという。

健康志向がエスカレート、だんだん夫の気分が悪くなり…

しかし、それがエスカレートするにつれ、だんだん気分が悪くなってきた。

「オーガニック野菜は一口で20回は噛まないと、野菜の甘みと栄養素を効率的に体内に吸収できないのよ。はい、1回、2回、3回……」

奥様は食材へのこだわりだけでは飽きたらず、その食べ方までいちいちFさんにレクチャーするようになった。Fさんは鬱陶しくてたまらないという。しかも、それが理論上は正しいことだから余計に困る。

また、家に流れるBGMもいつのまにかヒーリングミュージック中心になり、Fさんの好きなハードロックは「なんとなく健康に悪そう」という曖昧な理由で毛嫌いされた。さらに妙な薬草を購入しては夜な夜な謎の調合に明け暮れるようになり、そうこうしているうちに、どこでどう飛躍したのか、外出時にはマイ箸を持ち歩くようになり、なぜかスピリチュアルカウンセリングというものにもはまった。

「おまえ、どこ目指してんだよ!」

Fさんはさすがに抗議したという。もはやセルフメディケーションの範疇を超えているのではないか。理念がおかしな方向に捻じ曲がっているような気がしたのだ。

夫人に動じる気配なし、第一子の出産を前に戦々恐々とする夫

それでも奥様は動じる気配がなかったという。首と背筋をすっと伸ばし、宙を見つめるような遠い目をしながら、淡々と持論を展開する。

「健康を達成するための前提条件は食生活だけじゃないの。快適な住居空間と豊かで安定した収入、高度な教育、持続可能な資源、社会的な公正と公平、そして世界の平和や環境保護。それらすべてを推奨して、心の中から健康を作っていくことが大切で、結果的にそれは多くの人々の幸せにもつながっていく。つまり、わたしたちの健康は個人の問題だけではなくて、地球と人類のためでもあるのよ」

なんだか宗教みたいだな。Fさんはますます気持ちが引いた。だいたい、反論のしようがない正義をこれみよがしに振りかざすのは卑怯だ。

かくして、奥様のライフスタイルの変化は、現在のFさんにとって最大の悩みの種になった。来年の春には第一子が誕生するらしいが、その子供にも極端なセルフメディケーションを持ち込みそうで、今から戦々恐々としているという。

<作者プロフィール>
山田隆道(やまだ たかみち)
小説家・エッセイスト。早稲田大学卒業。これまでの主な作品は「虎がにじんだ夕暮れ」「神童チェリー」「雑草女に敵なし!」「Simple Heart」など。中でも「雑草女に敵なし!」は漫画家・朝基まさしによってコミカライズもされた。また、作家活動以外では大のプロ野球ファン(特に阪神)としても知られており、「粘着! プロ野球むしかえしニュース」「阪神タイガース暗黒のダメ虎史」「野球バカは実はクレバー」などの野球関連本も執筆するほか、各種スポーツ番組のコメンテーターも務めている。

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