「それでも俺はこの手を指す!」
積極的に攻めた佐藤四段だったが、相手は百戦錬磨のトッププロ三浦九段である。冷静かつ的確に受けられて攻めが止まり、反撃を許すことになってしまう。その間にGPS将棋の評価値も300点を超える差がついてしまった。
コンピュータの評価値は、おおむね500点差がつくと形勢に明快な差がついたと言われている。さらにトッププロというのは、わずかな形勢の差を生かして勝つ術に非常に優れた存在である。三浦九段を相手に300点を超える差は、すでに黄信号と言っていい。同時に解説の森内名人も三浦九段優勢と断言したこともあって、会場は「佐藤四段の快進撃もここまでか」という雰囲気に包まれた。
しかし、佐藤四段は粘り強く指し続け、300点~400点差のまま三浦九段に食いついていった。引き離されかけたマラソンランナーが、数十メートルの差でギリギリ踏みとどまっているような状態で、驚異的な精神力である。
この間の佐藤四段は、相棒のponanzaと意見が食い違ったときは、自分の考えた手を指していた。時には、ponanzaの評価値を確認した開発者の山本一成氏から「その手はどうか」と言われたこともあったが「それでも俺はこの手を指す!」と宣言して着手したこともあった。
しかし、決してponanzaの存在を無視していたわけではない。佐藤四段は、自分の考えた読み筋をponanzaに考えさせて、極端に評価値が下がらないかどうかをしっかり確認しながら指し進めていた。
終局後にこの日を戦いを振り返った佐藤四段は「今日は(持ち時間が)1時間の対局だったけど、コンピュータのおかげで6時間(通常のプロの公式戦でもっとも長い持ち時間)の対局と同レベルの将棋が指せた」と語っている。佐藤四段のとった方法こそが、コンピュータの力をもっとも生かす戦い方だったと言えるだろう。
孤独な戦いに入った佐藤四段が絶妙手を放つ
ponanzaとの絶妙のコンビネーションで驚異的な粘りを見せる佐藤四段の姿に、お祭りイベントであったはずの会場はいつのまにか静まり返り、しびれるような緊張感に包まれていた。
しかし、前を走る三浦九段との差が縮まったわけではない。同じ数十メートルの差でも、ゴールが近づけば近づくほど、絶望的な差になっていくように、将棋も最終盤が近づくにつれて、300点の差がどこかで致命的な差に変わる瞬間が訪れる。逆転するために佐藤四段に残された猶予は、ほんのわずかだった。
同時に佐藤四段には、時間切迫というもうひとつの不安材料が迫っていた。時間を使い切れば、1手に使える時間はわずか30秒。そうなればponanzaの評価値を詳しく確認している余裕はない。時間が切れれば孤独な戦いが待っているのである。そして98手目の局面でついに佐藤四段・ponanzaタッグは時間を使い果たしてしまう。
これは意外な手が出ましたね。何か意味があるのかな
解説の森内名人が思わずそうつぶやいたように▲5六歩という手は、指されて当然という手ではない。だが、佐藤四段は秒読みの中でとっさに判断して▲5六歩を放った。そして数手進んで▲5五桂という手が指されたところで、先の▲5六歩が絶妙手であったことが判明する。つまり相手の香を5六の地点に呼び寄せたことで、後手玉を攻める▲5五桂が実現したのである。
佐藤四段は終局後に「▲5六歩を打つ時点で▲5五桂の局面まで読めていたわけではありません。ただ、逆転するなら▲5六歩しかないと思って打ちました」と語っている。そして感想戦では▲5六歩の時点で形勢がわからなくなっているとされ、さらに三浦九段は「もしかすると、すでに逆転しているのかもしれない」と言っている。
ちなみに、GPS将棋の評価値は▲5六歩の時点では+500程度を示していたが、▲5五桂が打たれたところで、100点ほどに激減している。最強の将棋ソフトも▲5六歩が打たれた時点では、その価値がわからなかったのである。
佐藤四段の2度目の好手が炸裂、ついに形勢逆転
▲5五桂でGPSの評価値が激減した局面から数手後、ついに一瞬GPS将棋の評価値がマイナスに転じる。風前の灯に見えた佐藤四段・ponanzaタッグの奇跡的な追い上げを目の当たりにして、会場内にどよめきが起こった。誰もが目の前で繰り広げられている戦いが、歴史に残る名局になりうるものであることに気がつきはじめる。
その後GPS将棋の評価値はギリギリ100点程度のプラスに戻っているが、形勢不明になっていることは明らかだ。三浦九段の表情も非常に厳しいものに変わっていた。
▲2四歩を見た森内名人が「この手はおそらく自分で指しましたね。コンピュータの候補手にはなかった」と解説した。
▲2四歩が指された瞬間は、ponanzaの評価値は少しマイナスに振れている。候補手になかったのだから当然だろう。だが、数手進んだところでponanzaの評価値がぐんとプラスに動いた。佐藤四段の指した手が正しいことを少し遅れて判断したのだ。さらに数手遅れてGPS将棋の評価値がマイナスに大きく振れる。つまり、少なくともこの局面においては、ponanzaの評価能力がGPS将棋に勝っていたということになるのかもしれない。
秒読みに追われる佐藤四段は、相棒の示す手を確認している余裕はなかったが、プラスの値が少しずつ増えていることは確認していたという。そのことは逆転の手応えを感じながら、勝利への道筋を進む佐藤四段にとって、力強い心の支えとなったに違いない。
対局はここから30手以上続いたが、最後まで絶妙のコンビネーションを保ち続けた佐藤四段・ponanzaタッグが危なげなく押し切って、初の優勝を遂げた。
電王戦タッグマッチが残したもの
こうして初の試みであった「電王戦タッグマッチ」は幕を閉じた。
この日の戦いは、非公式戦であり、ファンが楽しむためのお祭りである。従って優勝という結果は、プロ棋士の生きる世界では大きな意味は持たないのかもしれない。だが、佐藤四段の戦いぶりが大きな感動を呼んだことは間違いのない事実。この先コンピュータがどれほど強くなったとしても、そこに人間が関わる限り勝負の感動がなくなることはないだろう。
そして、佐藤四段とponanzaのタッグが生み出した名局は、これまでの将棋とは異なる形の新しい将棋にも、ファンを楽しませることのできる可能性があることを示してくれた。これは将棋界全体にとっての大きな財産である。
「電王戦」開催の立役者であり、第1回の出場者でもある故・米長邦雄永世棋聖が語った「最終的にはコンピュータとの共存共栄」という将棋界の夢が実現する日は近いのかもしれない。