君塚良一監督が15日、岩手県釜石市の釜石高等学校にて行われた映画『遺体 ~明日への十日間』の上映会に出席した。

映画『遺体 ~明日への十日間』の上映会に出席した君塚良一監督

西田敏行主演の同作は、2011年3月11日、東日本大震災により発生した最大40メートルの津波に襲われた岩手県釜石市が舞台。混乱状態が続く中、市では廃校となった中学校が遺体安置所として使われることになった。残された市民が同じ街に死んでいた人々の遺体を搬送し、身元の確認を行わなくてはならないという厳しい状況の中、犠牲になった人たちの尊厳を守りながらも一刻も早く家族と再会させるため、懸命に尽くした人々がいた。

この日の上映会は、2013年2月23日の全国公開に先駆け、撮影に協力した釜石市民にいち早く披露するために行われ、会場には、1,000人近い応募の中から抽選で選ばれた約500人が詰めかけた。来場者の中には、仮設住宅から参加者や、実際に安置所を支えた登場人物のモデルになった人物の姿も。監督と脚本を務めた君塚良一氏は、釜石市民を前に「『決して震災のことを忘れてはならない、風化させてはならない』ということを胸に製作いたしました」とあいさつし、上映がスタートした。

上映中の場内にはすすり泣く声が響き、エンドロールが終わると同時に拍手が沸き起こった。君塚監督は、観客からの「作ってくれてありがとう」「怖かったけど見てよかった」という声を聞き、「ご遺族の方々にもご覧いただきましたが、率直に誠実に作った作品ですので、それに対して『ありがとう』という言葉をいただき、感無量でした。製作にあたり悩むことも多くありましたがやはり『作ってよかった』と思います」と胸をなでおろしていた。

震災後、原作である石井光太の著書を読み、釜石の遺体安置所の実態を知ったという君塚監督。「この事実をもっとたくさんの人に伝えなければならない、と思い映画化することを決めました」と語り、「震災の日に起きたこと、そこで一生懸命働いた人たちのこと、日本人の良心を伝えたい、と思い映画にしました」と作品に込めた思いを明かした。

それでも彼の中には、「この作品をつくるということ自体が、被災者のご遺族の傷口を広げるにすぎないのではないか」という一抹の不安があった。しかし、「僕はやり過ごすことはできなかったんです。誰かを傷つけるかもしれないからこの作品をつくらない、ということよりも『伝えたい』という気持ちと、批判をされても立ち向かう覚悟が勝り、映画化する決意をしました」と映画化に踏み切った経緯を明かした。

『遺体 ~明日への十日間』 2013年2月23日(土) 全国公開
配給:ファントム・フィルム (C)2013 フジテレビジョン

上映会後の釜石市民の感想(一部抜粋)

「母が遺体安置所でお世話になっておりました。当時の事実が思い出され、火葬するまでの間毎日安置所に通い話かけました。西田さんの言葉が心にしみわたり涙が止まりません。感謝の気持ちでいっぱいです。」(49歳女性)
「私も棺作りを致しました。思い出し苦しくなりましたが。体育館が穴だらけで、雪が溶け、遺体や棺が雨に当たらぬよう移動したことも思い出しました。辛いけど、忘れてはならぬ経験だと思います。」(65歳男性)
「改めて東日本大震災を風化させてはいけないと感じました。自分の子ども、そして孫にも語り継がなければいけないと思います。二度とこのような被害を出さないためにも。」(45歳女性)
「テレビでは報道されない津波被害の本当の姿だと思いました。」(25歳女性)
「私も助けられた一人です。これから頑張って生きていきます。」(65歳女性)
「私は家も無事で大丈夫でしたが、この映画を見てとてもとても悲しい気持ちになりました。本も読みましたが、あらためて命の大切さを知りました。この映画の途中に、泣き叫ぶ女性がいました。とってもかわいそうでした。娘を亡くした悲しみがどんなにつらいものか…と思いました。この映画をとおして、命を大切にすることを学びました。」(10歳女の子)
「知り合いにもまだ見つかっていない人がいて、改めて生かされていることに感謝してあの日を忘れないようにと思いました。」(62歳女性)
「身につまされて、言葉が出てきません。」(78歳女性)
「忘れたい記憶、でも忘れられない、わすれたくない気持ちでとても悩みました。この映画に救われたように思います。ありがとうございました。」(24歳女性)
「向き合うことが出来なかった。向き合わないまま1年と9カ月が過ぎてしまった今、この事実に向き合う時間を与えてもらいました。ありがとうございます。」(49歳男性)
「時々震災前の日々はなんだったんだろう…幻だったんだろうか…と思うことがあります。だけど、亡くなった友達も恩師も皆私の心の中にずっとずっと大切に生きています。そんなことを深く感じられた映画でした。」(37歳女性)
「私は生き残った。釜石人として、この映画を観なければと思った。奇しくも遺体安置所となったのは昔勤めていた中学校の体育館だった。命の尊厳がそこにはあった。残された者の役目として命の大切さを後世に伝えていかなければと深く思った。」(59歳女性)
「いつも『なんで彼女がなくなって自分は生きているんだろう』とずっと思っていました。でも今日観終わった後『次にもし津波が来てもまた生きたい。生きていて出来ることをやりたい。生かされたのだから』と思いました。」(36歳女性)