ささいなことでも認めよう
――メモをとってもインプットだけで終わり、なかなかアウトプットに結びつけられない人が多いのはなぜでしょうか
人の発言や外からの情報はおもしろいけれど、自分の発想はつまらないという思い込みがあるからではないでしょうか。
しかしそこは開き直って、映画を見ても「感動した」の一言しか書けない自分を認めなければいけないんです。
初めから自分の考えを検閲しないでいいんですよ。「感動した」もアウトプットには変わりないのですから。その良し悪しはさておき、発想する癖をつけておく。どんなにささいなことでも訓練になります。
どんなに情報通でも、「あなたはどう思いますか? 」と聞かれたときに答えられないのなら意味がありません。
ですから「ねぎま式メモ」で使う☆印の主観情報が一番大事なのです。映画を見たり講演やセミナーに行ったりするのは主観情報を出すためです。セミナーの内容を一言一句書き留めることが重要だという考えもありますが、セミナーはお金を出しさえすればまた聞けます。しかしそのときに自分が思ったことは再現できません。一瞬の発想こそがアウトプットですから、何気なく思ったことでいいのです。いきなり立派なことは出てきません。おもしろい本でも、最初は小さなつぶやきみたいなものだったはずです。
「ノートは思考のゴミ箱」ですから、目標やアイデアのほかに、どうでもいいこと、ばからしいこと、人の悪口、妄想でもどんどん書いていいのです。
――悪口や妄想を書いてもいいんですか(笑)
自分に対する検閲をやめると発想が自由になり、アイデアを出せる体質になります。 私がメモをとるようになったのは、ある作家さんから「寝たときに見る夢を書け」と言われたことからです。これも出し癖をつけるためです。
夢は理性と離れたものですから不条理ですし、自分の発想とは思えないこともあります。しかし頭の中では何を考えてもいいわけです。少なくとも頭の中だけはリミッターを解除しておかないと、いざというときに発想が出ません。「あいつを殴ってやりたい」と書いても実際に殴らなければいいのですから(笑)そこで自分はなぜ殴りたいのかと考えればいい。ポジティブシンキングもそれが強迫観念になるといけませんし、そうなるぐらいなら馬鹿げたことを書いてもいいと思っています。
――ノートの上ではすべてが許されている、ということですね
大人でノートに「こういう怪獣がいたらおもしろいなあ」と書く人はほとんどいないでしょう。しかしそういう発想を自分に許していれば、いつか人をあっと言わせるようなアイデアが生まれるかもしれません。
ふと頭のなかを突飛なアイデアがよぎったとき、「現代社会では無理だなあ」などと制約を設けないことが大切です。こうした子どものような発想は、素直に書いておけばいいのです。もしかしたら技術が進歩したときに作れるようになるかもしれません。今では当たり前とされているコーラでも、最初は理解されなかったと思いますよ。すべてのアイデアは同列線上にあり、ビジネスになる、ならないが初めから決まっているわけではない。ですから、自分由来の情報はどんなものでも貴重なのです。
──奥野さんのノートを拝見すると、本当にいろいろなことが書かれていますね
そうですね。ヤフーオークションで古い百科辞典を買おうとか、帰りにこんにゃくごはんを買っていこうとか(笑)
テレビで世界のドキュメンタリー番組を見て、オーストラリアのダーウィン市で生態系が狂ったという問題から日本の環境を考えたり、昔天王寺動物園にいたライガーという虎とライオンの掛け合せの記事を見つけて貼ったりもします。直接仕事に関係ない情報でも、おもしろいと思ったらすぐ入れておきます。
一見ビジネスに関係なさそうなことにも、重要なアイデアの種が隠されていることがある─ぜひこのことは忘れないでいただきたいですね。