――学生時代に映像制作について学ばれたのでしょうか?

「高校までは名古屋の学校に通って、高校を卒業して、埼玉県の熊谷にあった専門学校に進みました。その専門学校自体は、もうなくなってしまいましたけど、東京映像芸術学院というところの特撮学科に入りました。飛行機のミニチュアを作ったり、その吊り方とかをやるんです。先生方は『ガメラ』(いわゆる、昭和シリーズ)のスタッフの方が多かったのを知ってたんで、その学校を選んだんですよ。井上章さんという特撮美術をやられた方が特撮学科の学科長だったんです。僕にとって、最初に観た怪獣映画『ガメラ対大悪獣ギロン』の美術監督だった方ですからね。そういう方々から、当時の現場の様子をうかがったりとか、当時の資料をもとに教わったりね。小道具の作り方とか、怪獣の着ぐるみの作り方とか、基礎的なことです。『大怪獣ガメラ』の特撮監督をおやりになった築地米三郎さんも講師のお一人であられたんですが、大変かわいがっていただきまして、『お前はオレの弟子だ』と言っていただいて、私は"師匠"とお呼びしています」

――さぞかし楽しい学生時代だったんでしょうね。

「全寮制で、完全に隔離された場所だったし、寝ているか、ご飯食べているか、バイトしているか、映画の話しているか……本当に世間とまったく接しない2年間でしたね」

――2年制の学校だったんですか?

「専門学校の課程は、本当は3年間あったんですが、そこを2年で辞めまして就職したんです。残りの1年間は学校に行くつもりで就職して、仕事を通して勉強しようと思いまして」

――どのようなお仕事でしょう?

「そのとき就職したのは、映画館だったんですよ。東宝系の映画興行の会社が有楽町にあって、福島の劇場に赴任して、1年間モギリをやっていました。映画がタダで観られるという邪な考えで(笑)。いや、まじめに言いますと、映像を使って商売をするやり方を学びたかったんです。どうやって宣伝して、どうやって売るのか。自分たちの作った映像がお金になる部分というのは、学校では教えてくれませんから。専門学校で教わって、現場の雰囲気だとかは分かるんですけど。先生方は皆さん、制作現場の方ですからね」

――いわゆる、興業、プロデュースについて学ばれたんですね。実際には、どのようなことをなさいましたか?

「『割引券置いてください』って、いろんなお店を周ったり、前売り券をプレイガイドとかでやり取りするところから、小学校の前でチラシ配ったりとか、新聞広告をうったりとか。そういったことを限られた予算の中で、どうやって収支を合わせるのかをその1年間で、みっちり教えていただきましたね」