南海電鉄の汐見橋駅は通称「汐見橋線」の始発駅。正式には高野線の起点の駅だけど、高野線の立体交差事業によって分断されてしまった。現在は汐見橋~岸里玉出間を往復するだけだ。「都会のローカル線」「忘れられた本線」などと紹介されたりする。
汐見橋駅の開業は1900(明治33)年。開業時の駅名は「道頓堀」だった。現在の駅舎は1956(昭和31)年に建てられた。改札口の頭上に掲げられた昭和30年代の「南海沿線観光案内図」が、この駅の歴史と伝統を示していた。休日にはこの駅から行楽に出かける人も多かったのだろう。
2004年に筆者がこの案内図を見たときは、中央に少し破れたところがある程度だった。しかしその後は傷みが増して、破損面積も大きくなってしまったようだ。2016年3月23日の新聞報道によると、3月1日に撤去、廃棄されてしまったという。昭和30年代の鉄道や観光地の様子を残す貴重な資料なだけに残念だった。2004年の時点で額装、保存してくれたら……と思うと悔しい。
この「南海沿線観光案内図」は淡路島も描かれており、そこに赤い線が引いてあった。その線は南海電鉄ではなく、淡路鉄道の路線だ。淡路島には鉄道があった。
淡路鉄道は淡路島東岸中央部の洲本と淡路島南西部の福良を結んだ。どちらも港町で、当時は洲本と大阪・神戸方面を結ぶ船が発着し、福良と徳島県の鳴門を結ぶ船もあった。
淡路鉄道の路線距離は23.4km。開業は1922(大正11)年。全通は1925(大正14)年。当初は蒸気機関車で運行し、のちにガソリン気動車なども導入された。戦後は電化され、南海電鉄から購入した電車が走った。きっとその縁で南海電鉄と淡路鉄道は良好な関係にあり、南海沿線観光案内図にも淡路鉄道が掲載されたと思われる。
洲本~福良間の所要時間は1時間程度で、1日に30往復していたという。全線単線で、信号機による自動閉塞を導入。おもな踏切には自動警報器も設置されるなど、当時としてはかなり近代的な設備を持っていた。
淡路鉄道を利用して、本州と四国を結ぶ鉄道を整備する動きもあったようだ。国が建設すべき鉄道を定めた「鉄道敷設法」で、1953(昭和28)年に須磨~岩屋、福良~鳴門が追加された。淡路鉄道が洲本から岩屋へ延伸すれば、本州と四国が鉄道でつながった。しかし、淡路鉄道はその計画を待たずに廃止となった。
淡路鉄道の廃止は1966年。9月末日が最終運行日だった。廃止の理由は採算が合わないため。その原因は自動車の普及である。廃止のきっかけはその1年前の集中豪雨で、鉄道が寸断され、乗客が鉄道からバスへ移ってしまった。鉄道が復旧しても、バスの乗客が戻ってこなかった。
淡路鉄道は戦時中にバス会社と統合され淡路交通として再編されており、会社としても鉄道よりコストの低いバスを推進したようだ。ちなみに、淡路交通の公式サイトには、「当社は、もともと鉄道会社(淡路鉄道株式会社)として、大正11年11月に鉄道を開通させました」と記載されている。
淡路鉄道の当時の姿がYouTubeで公開されている。2014年に亡くなった鉄道模型趣味の達人、原信太郎氏が16mmフィルムで撮影した映像の一部を神戸新聞が映像ニュースとして報じた。2015年には洲本市でカラー写真も見つかり、11月に開催された淡路鉄道展で公開された。2016年は淡路鉄道の廃止からちょうど50年にあたる。貴重な資料を公開するイベントを期待したい。