3月14日のJRダイヤ改正で上野東京ラインが開業する。当連載第241回で紹介したように、この路線は新設ではなく復活だ。東北新幹線を建設するために分断された在来線を敷き直した。2001年12月の湘南新宿ライン運行開始以来、約14年ぶりの「路線網改造」といえる。
しかし、東京の鉄道網の大変革はいまから50年前に始まった。その名も「通勤五方面作戦」だ。当時の国鉄が1965年度から着手、1971年度末の完成をめざした計画である。戦後の高度経済成長と都心部への企業の集中、住宅地の郊外への広がりなどから、首都圏の通勤電車は乗車率300%を記録するなど殺人的な混雑度となり、「通勤地獄」と呼ばれた。
民間の鉄道会社であれば、住宅地の開発と並行して鉄道路線を建設し、乗客増を見込んで複線化、複々線化などの先行投資もできる。しかし、当時の国鉄は鉄道とその付帯事業以外認められず、都市計画とは無縁で、増え続ける乗客数に対して先手を打たなかった。
こうした状況を打開するために、「通勤五方面作戦」は立案された。東京を中心として放射状に形成された鉄道網の大改造が決まった。この計画を実行した結果、現在のJR東日本の東京周辺の路線網が形成されたといえる。
さて、5つの方面とはどの路線で、どんな改良が行われたのだろうか?
1. 東海道本線方面
当時、東海道本線と横須賀線は東京~大船間の複線を共用していた。横須賀線が東海道本線に乗り入れる形だったが、列車の増発はもう限界だった。そこで、東京~大船間の路線を新たに整備し、東海道本線への乗入れを取りやめた。
具体的には、東京駅に地下ホームを作り、そこから品川駅まで新路線を建設。品川駅からは「品鶴線」と呼ばれていた貨物線を経由し、新鶴見信号場から鶴見駅まで旅客線を新設、鶴見~大船間は貨物線を転用した。このルートは新横須賀線と呼ばれ、現在に至る。東京~横浜間はかなり離れているけれど、東海道本線の複々線化といえる。
2. 総武本線方面
錦糸町~千葉間を複々線化し、総武快速線を増設した。錦糸町駅から西側は従来の総武本線を離れ、東京駅の地下駅まで新線を建設し、横須賀線との直通運転を実施した。従来の総武本線の急行列車は両国駅または新宿駅を始発駅としていた。これらの多くを東京地下駅発着とし、房総方面の特急列車を新設した。
総武線各駅停車は、西側において中央線各駅停車として中野駅まで乗り入れていた。東側は西船橋~千葉駅間で地下鉄東西線との相互直通運転を開始した。
3. 中央本線方面
中央線ではすでに路線の強化計画が始まっていて、御茶ノ水~中野間が複々線化され、総武線各駅停車が乗り入れていた。この複々線区間を立川方面へ延伸する計画が立案され、三鷹駅まで実施された。また、中野駅から三鷹駅まで地下鉄東西線と直通運転を実施した。東西線は総武本線・中央本線の各駅停車を補完する役割を持っていた。
4. 東北本線方面
当時、東北本線と京浜東北線の線路は東京駅から赤羽駅まで分離されていたが、赤羽~大宮間は複線を共用していた。そこで、この区間を複々線とし、京浜東北線と東北本線の旅客列車を分離した。
5. 常磐線方面
上野駅から北千住駅までは複線のままとし、北千住駅から取手駅までを複々線化。中距離電車や快速は上野駅発着とし、各駅停車は北千住駅から地下鉄千代田線と相互直通運転を開始した。
これらの計画は1965年までに工事に着手したが、完成予定とされた1971年までに間に合わない路線もあった。東北本線の改良は高架化も含めて1968年に完成。中央本線の三鷹駅までの複々線化は1969年に完成。常磐線の複々線化は1982年に完成。総武線各駅停車と地下鉄東西線の相互直通運転は1969年開始。東京駅地下ルートは1972年、千葉駅までの複々線は1981年に完成した。東海道本線と横須賀線の分離運転は1980年に開始している。
こうして、現在の首都圏の路線網が形成された。それでも通勤客増加の勢いは続き、列車の長編成化、信号設備の改良による運転間隔短縮などの改良が続いている。上野東京ラインのように、従来は都心で行き止まりだった路線を直通運転する施策の"元祖"は、通勤五方面作戦の新横須賀線と総武快速線の直通運転に通じるしくみだ。
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