富士山の世界文化遺産への登録がほぼ確実になったという。鉄道ファンにとって、富士山への交通手段といえば、まず富士急行が挙がるだろう。「世界文化遺産への登録が確実」との報道が流れるや、同社の株価もストップ高になったほどだ。
富士急行は山梨県を中心に鉄道とバスを運行している。富士山観光の拠点となる駅は、かつて「富士吉田駅」という駅名だったが、2011年に「富士山駅」へと変更され、水戸岡鋭治氏のデザインでリニューアルされた。
富士急行の鉄道路線は、JR東日本の中央本線と接続する大月駅から河口湖駅までの約26km。富士山駅はその中間駅だが、なぜか行き止まり型だ。ほとんどの列車は大月駅から河口湖駅まで運行されるので、富士山駅でスイッチバックすることになる。
たとえば、大月駅から「フジサン特急」のパノラマ展望車に乗り、前面展望を楽しんでいると、富士山駅からは最後尾になってしまう。「フジサン特急」には逆向きの編成もあって、こちらは最後尾の展望車に乗っても、富士山駅から逆向きになって前面展望を楽しめる。どちらの編成に乗っても前面展望を楽しめるから、良いサービスかもしれない。
それにしても、どうして富士山駅は行き止まり式の駅なのだろうか?
勘の鋭い人なら、「この先に線路が伸びていたのでは」と予想するだろう。まさにその通り。山岳区間でもない駅でスイッチバック構造になっていた場合、「かつてはその先に線路があった」という証拠であることが多い。当連載の第127回でも、一畑電車北松江線の一畑口駅と、富山地方鉄道本線の上市駅の事例を紹介した。JR北海道の石北本線の遠軽駅もそうだ。富士急行の富士山駅も、かつては行き止まりの線路の向こうまで線路が延びていた。
馬車鉄道で大月から御殿場まで乗り継げた
現在は大月~河口湖間を直通する列車が多いため、富士急行の鉄道路線は「富士急行線」とひとまとめに呼ばれることが多いけれど、正式には富士山駅を境に大月駅側が「大月線」、河口湖側が「河口湖線」である。このうち、大月線の前身はふたつの馬車鉄道だった。大月駅から小沼(現在の三つ峠駅)までが富士馬車鉄道で、小沼から金鳥居上(現在の富士山駅)を経由し、山中湖の南側の籠坂峠まで都留馬車鉄道の路線があった。
さらに籠坂峠から先、御殿場までを御殿場馬車鉄道が結んでいた。なんと、かつて大月から御殿場まで、馬車鉄道がつながっていたのだ。もっとも、それぞれの会社は線路の幅が異なるなどの理由で、直通運転はできなかったようだ。
その後、ふたつの馬車鉄道は富士電気鉄道、都留電気鉄道となった。そして輸送規模を改善するため、両路線の直通運転を計画。1921(大正10)年に都留電気鉄道は小沼~金鳥居上間を富士電気鉄道に譲渡した。富士電気鉄道はこれを機に、大月~小沼間の線路幅を変更の上、電化。大月~金鳥居上間の直通運転を開始した。この路線の軌間は都留馬車鉄道時代からの762mmだった。その後、静岡県方面の金鳥居上~籠坂峠間は1927年に廃止され、金鳥居上駅、つまり現在の富士山駅が終着駅となった。
ただし、富士電気鉄道の大月~金鳥居上間は馬車鉄道時代の狭い線路幅で、道路と併用する区間もあった。そこで線路を付け替え、1,067mmへの改軌を計画。1926年に富士山麓電気鉄道が設立され、富士電気鉄道は既存路線を譲渡した。新路線の開業は1929(昭和4)年。これが富士急行の始まりだ。
その21年後に、「金鳥居上」改め富士吉田駅(現在の富士山駅)から河口湖駅までの河口湖線が開業している。河口湖へは、御殿場方面とは逆方向だ。そこで富士吉田駅は行き止まり型の駅構造のまま、逆向きに新たな線路を建設した。こうして現在のスイッチバック方式の運行が始まったというわけだ。