昂志のスーパーカブの荷台に、ぐるぐる巻きつけられた積荷がある。昂志はそれを手慣れた様子でほどくと、百花に手渡した。
「けっこう長いこと使ってたし、気にいらなかったら捨てていいから」
そのまま仕事に行く昂志を見送り、百花は部屋で荷物を解いた。昂志が自宅で使っていた、落ち着いたブラウンの毛布だった。
二人が付き合い始めたのは、3ヶ月ほど前のことだった。お互いに一人暮らしで、お互いにシングルのベッドしか持っていなかった。それは、学生時代ならともかく、もう30歳をとうに過ぎた二人には、一緒に寝るには少し寝苦しいものだった。
二ヶ月が経った頃、昂志の部屋のベッドに横になると、「何か、気づかない?」と言われた。
部屋を見回しても、もともと家具の少ない昂志の部屋に、何か変わった形跡もない。天井からソファの下まで視線をさまよわせている百花を見て、昂志は笑った。
「人の盲点って、本当にあるんだなぁ」
昂志は、ベッドをセミダブルに買い換えていたのだった。百花と一緒に、ゆっくり眠るために。
「君のために買ったよ」というようなことを言わない昂志のさりげなさが、百花には愛おしかったし、ベッドを買い換えるほど新しい恋に舞い上がりながらも、これから先も一緒にこのベッドで寝るのだと堅実に考えている昂志の気持ちも伝わってくるようだった。
そこで、シングル用だった寝具が不要になり、寒がりの百花は毛布を貰い受けることになったのだった。
昂志は几帳面な性格で、きちんと洗濯して渡してくれた。布団袋から出したとき、一瞬、柔軟剤の香りがした。しかし、実際ベッドに広げてみて、もぐりこんでみると、そこには強烈なほど、昂志の匂いしかしないのだった。
臭い、とか、そういうわけではない。昂志の匂いを知ってしまった百花の鼻が、敏感に昂志の香りを嗅ぎ取ってしまうのだ。洗っても取れない、人の匂い。そういうものがあるのだろう。
百花はその毛布にくるまっていると、昂志がいるようでいないので、余計に一人でいることが寂しくてたまらなくなったりしたし、誰とも会う気力がないほど疲れているときに毛布にくるまると、昂志の匂いがすることにほっとしたりもした。
けれど、匂いはここにあるのに、昂志はここにいない、という存在感の落差は、百花をどうしようもなく不安にさせた。
匂いをかぎとるたびに、百花は昂志を思い出さざるを得ない。考えずにいることなどできない。呪縛のように、毛布に入るたび、昂志の気配が立ち上ってくる。その匂いから、のがれられない。
そして、自分が思うほど強烈には、昂志は自分の存在を思い出してはいないということが、はっきりわかってしまうのだ。昂志の思いに、私の香りはない。
百花は、その不在を埋めたくて、早く昂志と一緒に暮らしたい、とほのめかすようになった。最初はお互い、いずれは一緒に住んで、その先の人生も共にしてゆくのかもしれない、と同じ夢を見ていたはずだった。
けれど、昂志にとっては百花のスピードは早すぎるように思えたし、ときどき自分の家の新しい広いベッドで一緒に眠る生活では、百花に安心感を与えられていないのか、それは自分が頼りなくて信用できないと思われているのではないか、と感じ始めた。
「少し距離を置いて考えたい」と昂志に言われたとき、百花は、もう二度と戻ることはないと直感的にわかった。
「毛布を、持って帰ってほしい」。
溢れそうになっている涙をこらえながら、かすれる声でそう言うと、昂志は「もう俺はいらないから、捨ててくれていいよ」とこともなげに言った。
「違うの、捨てられないの。この毛布は、あなたの匂いがするから、この毛布は、あなたみたいだから。これを捨てたら、あなたの痕跡が、ぜんぶなくなってしまう」
百花は、言いたい言葉を全部飲み込んで、昂志を送り出した。
その夜は、昂志の匂いのする毛布の中で、泣いた。こんなにも涙が出るのかというくらい泣いた。黒々とした夜が色を変えてゆく頃、百花は起きて、その毛布をゴミ袋に入れ、二度と開封できないように丁寧に梱包し、次の粗大ゴミの日まで開かずに済むように、物置に隠した。
あのビニールの中で、昂志の匂いと、私の涙の匂いは、混じり合っているだろうか。そう思うと、まるであの毛布の中でだけ、二人の恋が成就しているような、そんな気がするのだった。
<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)、マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)、『女の子よ銃を取れ』(平凡社)、『東京を生きる』(大和書房)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。最新刊は、『自信のない部屋へようこそ』(ワニブックス)。
イラスト: 安福望