若手のビジネスパーソンは悩みだらけ。「将来が見えない」、「自分が何に向いているか分からない」。自分の正解を探す人へ、人生のドン底を経験した元アイドルで今はライター・作家として活躍する大木亜希子さんが気になる本を紹介。この連載が不安な心を少し楽にしてくれるかもしれません。
いつのことだったか、ほとんど覚えていない。覚えてはいないが、以前、作家の燃え殻さんにカジュアルに告白したことがあった。しかし、あっさりと振られた。
「君のことを、男だとか女だとか、そういう視点で見たことがない」
たしか、そんな返事だった気がする。なるほど。普通ならば、そこで諦めるのが正解なのかも知れない。しかし私は、哀しんだり落ち込んだりするわけでもなく「それ は凄く良い提案だ」と思った。
名前の付けられない感情を持ったまま、それを解決せず、ただやり過ごす。それが本件に対する流れとして、いちばん良い気がしたのだ。そして今でも、「それで良い。それが良い。おそらく一生この距離感だろう」という心持ちでおり、この感情をこれ以上、追求する予定はない。
「それで良い。それが良い」が詰まった本
『すべて忘れてしまうから』(扶桑社)には、「それで良い。それが良い」が詰まっている。50本ほどのエッセイが収録されているなかで、私は「旦那はいないから安心して」という話がいちばん好きだ。燃え殻さんが30代前半の頃に経験したエピソードである。
ある日、彼は仕事や人生に嫌気がさし、ふと思い立って石垣島に独り"飛んで"しまう。見知らぬ土地を徘徊する彼は、夜になって恐る恐る一軒の飲み屋に入ってみることにする。
そこでうっかりと浴びるように酒を飲み、翌朝目覚めると、そこは見覚えのない平屋だった。そこには、前の晩の店のママと5歳の息子がいた。
ママは一言、「旦那はいないから安心して」と言って、朝食を作ってくれる。
昨晩の曖昧な記憶と、無邪気な子ども。膨大な情報量に戸惑い、整理しようとする彼に対して淡々と接する親子。そこから燃え殻さんは、しばしそこに滞在してみることに決めるのだった。
ママと燃え殻さん、息子の三人の穏やかな関係は1週間ほど続き、このまま一生、この生活が続けても良いと思っていた矢先、ある出来事きっかけに物語は終わりを告げてしまう。
名前の付けられない感情
私はこの物語を読んだ時、なぜか「生きる」ことについて深く考え込んでしまった。
私がもしも石垣島に店を構える5歳の息子を持った女性で、ひとりの男がある日、店にやってきたとしたら。やはり私も、同じように現実世界から人目につかない場所へしばし男を隠しておくと思うのだ。
それは、愛情や母性といった、一般的な感情とは少し異なる気もした。
男だとか女だとかそういう視点でもなく、人間関係の上下でもなく、ただひたすら「ひとまず一緒にいましょう」と、名前の付けられない感情が芽生えるのだと思う。
私たちは説明できないことを選ぶ
私たち人間は、時々、社会的な常識では説明できない選択を選ぶ。それによって、カタルシスが得られるのではないか。たとえ決断すべき時はあっという間にやってきて、共に過ごした日々が人生では何も糧にならないことを分かっていても。
人生で大切な瞬間を思い出す時、いつも「無駄だったあの瞬間」が蘇るのは、きっとそのせいだろう。
「それで良い。それが良い」
燃え殻さんがつむぐ言葉の数々は、今日も私にそう訴えかけてくる。
「欲しがるな。ほどほどに」とも。
そもそも、私が燃え殻さんに抱いていた恋心も、きっとすべて忘れてしまう。ただ私は、これからも燃え殻さんという作家が吐き出す、すべての言葉をずっと吸っていたい。
さっき、燃え殻さんの本に、食べていたスイカの汁がうっかりと飛んでしまった。それさえも、すべて忘れてしまう。