矛盾という言葉がある。

どんな矛でも通さない、世界で一番強い盾がある。一方、どんな盾でも突き破る、世界で一番強い矛がある。さて、ではその世界一同士がぶつかりあったら……という逸話から来た言葉だ。

小学生の頃から、学校の先生に「自分に勝て」と言われ続けてきた。少しでも弱音をはくと、「そんな弱い自分じゃダメだ。自分に勝つもっと強い自分にならないと」と、自分を叱咤激励し鼓舞してきた。ほとんど強迫概念かのように、そう信じて頑張ってきた。だが……疲れた。

そんな疲れたある日、ふと気がついたのだ。待てよ、自分に勝つ?それってもうひとりの自分が、忌むべき負けることに他ならないのではないか、と。逆説的にいうなら、あえて自分に負けてみる。するとどうだ! 必然的にもうひとりの自分が勝っているのだ。

すなわちどんな生き方をしたところで、自分にどんな勝負を挑んだところで、所詮自分が自分である限り、自分は自分に勝つのだし、それは自分が自分に負けることでもある。常に1勝1敗。どうあがいても勝ち越すことはないのである。

話はころりと変わるのだが、スポーツ新聞や週刊誌には、必ずHなページが設けられている。そしてスポーツ新聞や週刊誌は、通勤のよく混んだ電車の中で読まれるものと相場が決まっている。

あの満員電車の中で、過激でHな記事を読む、それも読み切る根性には感服するが、それも自分に勝ったことになるのだろうか? そのHな記事のページを1枚めくれば、教師とか警官とか、あるいは社会的地位の高い人の破廉恥罪……痴漢とか婦女暴行とか下着泥棒とか……が、眉間に皺を寄せた論調で記事になっていたりする。果たしてこれは悲劇なのか喜劇なのか? 冗談なのかマジなのか?

世の中に、これほどの矛盾はない。欺瞞といい換えてもいいかもしれない。この場合、自分に勝つとはどういうことだろう。素直にHな記事に反応すべきなのか。それともそうした邪心を抑えて、平然と読み流すべきなのだろうか。いやいや、そもそもそうした記事を満員電車で読むべきなのだろうか? 恥を押し殺して読むことが自分に勝つことなのか、それとも欲望を理性で抑えて読みたいのに読まないやせ我慢こそが、自分への勝利なのだろうか?

朝の通勤ラッシュという、どこにでもある日常の風景にだって、このような葛藤がある。そしてその葛藤とは、小学生の頃から「自分に負けるな」と洗脳され続けてきた強迫観念にこそ、その悩みの根源があるのではないだろうか。

歌の文句ではないが、勝った負けたと騒ぐじゃない。勝つと思うな思えば負けなのだ。勝敗とはコインの裏表であり、勝ちは負け、負けはすなわち勝ち。負けるが勝ち、という言葉もある。いやいやもしかすると勝ち負けなどというものは、そもそも存在しないのかもしれない。だとすれば、そんな勝負に挑む、それも自分に勝負を挑む様は、あたかも滑稽なドン・キホーテではないか!

だからボクはもう自分に挑むことは、端からやめた。勝ち負けではない、ジャンケンで言うところのアイコの人生を歩むことに決めたのだ。そして勝敗にこだわらない達観こそが、女性にモテることにつながると信じていたのだが、いやはやそれは単なる優柔不断な、煮え切らない男として、少なくとも恋愛においては連戦連敗になることも付け加えておく。それにしても満員電車のスポーツ新聞のHな記事。読むべきか、読まざるべきか?

本文: 大羽賢二
イラスト: 田渕正敏