政治的な話をするつもりはない。このコーナーがそれを要求しているとは思えないし、なにより高説を宣う資格もなければ資質もない。ただ男と女の関係を考える上でも、恋愛を真剣に論じる上でも、少しばかり考えてみたいのだ。

今は普通選挙制度の時代である。普通選挙とは一定の年齢に達すれば、誰もが平等に投票にも行けるし、選挙に立候補もできる、という制度である。女性に選挙権が与えられたのは、この国の長い歴史の中ではついこの間のことである。男にしても一定の税金を納めた者にしかこの権利を与えられない時代もあった。いやそもそも、この権利そのものがごくごく最近、勝ち取り、与えられたものだ。ところがどうだ……。現代人は、この権利をどれだけ粗末にしているだろうか。

言っておくが、昔が良かった、昔に戻せ、と言っているのではない。そもそもそんなことを言える資格はないし。でも普通の状態が普通じゃないのだから、この辺で制限を設けるべきではないのかしらん? たとえば3回連続で棄権したら、1回は休み、つまり選挙権を与えないとか……。

ネット社会ではこんなことをいうと、すぐに槍玉にあげられそうだ。でもね、そもそもボクの文章にケチをつけること自体が恥ずかしいことだから。だいたいボクにそんな発言をさせること自体が、この国の困った現状なのであって……。すいませんけど、その辺、よろしくお願いしますよ! 本当に!

まあ、それはともかくとして、自由とは不自由があって初めて生まれる概念である。と同時に、不自由とその経験があるからこそ自由がありがたいのであって、そこから快適とか便利とかが生まれるのだろう。

だが、快楽ということになると、果たしてどうだろうか? 快楽とは克服すべき困難とか、ときに不条理な苦難とか、それを乗り越えて得られるものであるような気がする。快適でも便利でもないが、ときに克服できなかった困難や不条理な苦悩そのものが快楽となったりするものだから、そこがまた不思議であり、人生の面白いところでもある。

それほど難しい話ではない。あらゆるルールとは、不自由なものである。不自由は制限、と言い換えてもいい。打者は3球ストライクを取られたら三振なのである。どこの国の王だろうが独裁者だろうが、これを4球にすることはできない。サッカーにしても、時間も決められていれば、出場できる人数も決まっている。そうした制限……不自由の中で、技を競い、相手と戦い、だからこそより高いパフォーマンスが発揮でき、ときに勝利の美酒に酔いしれることが許されるのだ。酔いしれる……すなわち快楽である。

「わたしはM」、「オレはS」、ときに「わたしってドSだからさぁ」などという最近の若者の会話を聞くと、ボクなどは思わず赤面してしまうのだが、それはともかく、そもそもSMが成り立つ(プレイのみならず精神性においても)のは、そこに不自由があるからだろう。目隠しをされる。手足の自由を奪われる。行動が制限される。ときに言いたくない言葉や行為を強要される。

もちろんSの側には自由が与えられるとの見方もできるのだろうが、そこはMである不自由の側との相対の中に存在する自由であり、その信頼関係のないサディスティックな行為は、ただの虐待であり暴行であり、ときに殺戮までになってしまう。それもまた快楽という者もいようが、そうした独善が社会的に許容されるわけもなく、それこそ不自由を知らぬ愚かな自由という自家撞着に陥ることになる(なんのこっちゃ?)。

いずれにしても一方に不自由であるからこその自由であり、不自由の枠内での自由だからこそ快楽を超えた悦楽が手に入れられる! のではないだろうか。そう言い切れないところがボクの弱いところでもあるのだが、この点もサラリと読み飛ばし、あんまり突っ込まないように。ネット社会もまた、こんな三文ライターには突っ込まない、という制限、ルール、すなわち不自由を設定して欲しいものだ。突っ込みたいけど突っ込めない! この歯間になにかはさまって、しかも取れそうで取れない嫌悪というか焦燥というか不快は、いつしか快感に変わる! かもしれないぞ。

まあ、そんなことはどうでもいい。人を快楽に導くスパイスは、一面で不自由だとボクは思う。不自由の存在があってこその自由こそ、慈しみでもあり美しくもあり、だからこそありがたい恵でもあるのだ。おそらく谷崎潤一郎などは『春琴抄』でその辺の美を追求したかったのではないか、などとこの三文ライターは思うのだが、この点もまたあまり真剣に突っ込まないこと!

さてさて結論。モテないこと、カノジョがいないことは不幸ではなく、不自由である。不自由の先には自由という快楽がある。そんな風に思うだけで、少しは気が紛れ、人生も明るくなる……と思うよ。いやはや、そんなことを考えることが不憫ではあるが……。

本文: 大羽賢二
イラスト: 田渕正敏