仕事で観る必要があり、『家政婦のミタ』『夜行観覧車』という二つのドラマを続けて鑑賞しました。偶然ですが、どちらの作品にも崩壊しかけている家庭が舞台になっており、家で暴れて親に罵声を浴びせる子供や、帰宅恐怖症で家の前まで来てもドアを開けることができず、外で車にこもる父親が登場します。

怒鳴り声が耐えないこの二つのドラマを観ていると、だんだん「家族って、いったい何なんだろう……」と暗い気持ちになってきました。

父親は「俺は家族のためにこんなにがんばって働いているのに、誰もそれに感謝してくれない」という不満を抱え、母親は「私はみんなのためにいろいろがんばって我慢しているのに、誰も協力や感謝をしてくれない」という不満を抱え、子供は子供で「うちの親はわかってない」「愛情が足りない」という不満を抱えているのを見ていると、「どうしてこんなことになってしまうんだろう」と思わずにはいられません。

一人暮らしをしていると、自分で稼いで自分で家事をするのは当たり前です。疲れているのに家事をしないといけないとか、仕事でストレスがたまることはありますが、その不満は他人に向かいようがありません。家庭不和のドラマを観ていると、一人なら「しょうがない」と思えることが、家族を持ったせいで家族に向けられているように感じました。

「他人」から「家族」への壁をどう乗り越えるか

自分が家族と暮らしていた頃を振り返ると、家族仲は決して良くありませんでした。お弁当を作ってくれる母に感謝もせず、家事の手伝いもせず、働いている父母への感謝など、考えたこともありませんでした。

離れて暮らすようになり、自分で家事をし、アルバイトを始め、その大変さに疲れ果ててようやく「こんなことを人のためにできる父母はすごい」と感謝の気持ちを抱くようになりました。離れて暮らすことで、お互いに小言や文句を日常的に言う機会がなくなり、距離感が「他人」に近くなったことで、私は家族に対する思いやりを持てるようになったと感じています。

そう感じたことを思い出すと、はっと重要なことに気づきました。「そういえば今まで、結婚直前まで行ったのに別れたときって、他人が家族になりかけた時だったのかもしれない……」そうなのです。恋人という他人としてつきあっているときにはそこそこうまくいっていたのに、結婚を意識した途端、「他人なら許せても、四六時中一緒にいて、生活を共にする家族になるんだったら、これは勘弁してほしい」と、不満や相手への要求が膨れ上がり、ケンカが増える、ということが何度もあったのです。

「家族といっても、ある程度は他人としての距離感で接したほうが関係がうまくいく」と感じていたはずなのに、恋人を結婚相手として意識したとたんにそうなるということは、私の中で、「家族なんだから何もしなくても愛し合っていて当然」という幻想は崩れ去っていても、「夫というものはこうあるべき」だとか、「夫婦は他人ではないのだから、なんでも踏み込んで話し合うのが当然」という幻想は崩れていないということなのだと思います。

その結果、夫婦になってもいないのに、踏み込む必要のないところにまで土足で踏み込み、関係自体を破壊してしまうはめに……。付き合うことと、結婚することは違う、とよく言いますが、結婚というものがどういうものか知りもしないのに「結婚とはこうあるべき」と考えるとき、その考えの根本にあるのは、ただの幻想だという場合もあるのかもしれない、と感じた出来事でした。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩