先週、最高裁判所で「非嫡出子の法定相続分が嫡出子の1/2だというのは違憲である」という判決が出ました。私は不勉強ながら、そもそも非嫡出子(結婚していない男女間の子供)の法定相続分が嫡出子(結婚している男女間の子供)の1/2だということ自体が初耳で、そんな露骨な差別が行われていたとは知らず、ショックを受けました。

このニュースを聞いて思ったことは、「非嫡出子」という存在は、おそらく「ちゃんとしてない」存在だとして長いこと扱われてきたのだろう、ということでした。「ちゃんと」結婚して産まれてきた子じゃないのだと。でも、「ちゃんとした」存在、「ちゃんとした」結婚とは、いったい何なのでしょうか。

「ちゃんとした」結婚の定義とは

例えば、妊娠してから入籍する「できちゃった婚」は、今ではかなり多いですが、同時に今でもなお「ちゃんとしてない」と眉をひそめる人も多い入籍の形です。

「もともと、いつ結婚しても良いとお互い思っていたので、妊娠したら結婚して一緒に住もうと話し合っていた」という人もいますし、入籍し出産し、子供を育てる人が「ちゃんとしてない」かというと、十分に責任は果たしているのではないか? と私は感じるのですが、「できちゃった婚」は入籍してから妊娠、という順番を守っていないとか、婚前の性行為や避妊への意識が薄かったであろうことなどを勝手に想像し、不快感を表明する人も決して少なくありません。

けれど、その一方で今世間で発されているメッセージは、「高齢出産は大変、高齢になってからの妊娠は大変、不妊治療は大変、だから若いうちに早く産んだほうがいい」「少子化なんだからどんどん産め」です。

なぜ結婚しているか、していないかだけで、そんなに手のひらを返してまったく違うことを言えるのでしょうか。私の出身地では、30代後半になって結婚も出産もしておらず、さらに「フリーライター」などというわけのわからないカタカナ職業に就いている女は「ちゃんとしてない」と思われています。

けれど、結婚したらしたで「ちゃんとした結婚はこういうもの」「ちゃんとした妻はこうするもの」という新たな「ちゃんとした形」を押しつけられます。

信じがたい話ですが、ごく最近、私の母は、挨拶しかしたことのない程度の関係の近所の年配の男性に「あんたは自分だけ車で出勤して、なんでご主人を車で駅まで送っていかないんだ」と説教されたそうです。

説教した人は、私から見れば他人の家のことをよく知りもしないのに口を出す、非常識で最低な人です。でもその人は、自分の意見は正しいし「ちゃんとした」考えだと信じていて、私の母のほうが間違っていると思っているのでしょう。

そういう話を聞いていると、「ちゃんとしてる」というのは、いったい何なんだろうと思うのです。たまたま世間的に認められる「ちゃんとした」立場にありつけただけの人(結婚している両親のもとに産まれてきた、なんていうのは、本当に偶然でしかありませんよね)が、「ちゃんとしてない」人間を非難するなんて、生命に対する冒涜のように思えてきます。

私は、自分が会社員ではなく、そして独身であるということだけで、自分が「ちゃんとした社会人ではない」のではないか、と思うことがあります。そう見られることはわかった上で選んだ道ですが、そうした疎外感は今の立場につきものであっても、その疎外感を積極的に感じたくて独身やフリーランスの道を選ぶ人などいないでしょう。

誰もが「自分はこの社会では『ちゃんとしてない』存在だ」と感じずに済む社会は、実現できないのでしょうか。そう感じずに済むだけで、人の幸福度は今よりもずっと上がるのではないかと思うのです。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩