漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「看病」である。

思えばここ数十年、する側としてもされる側としても看病には縁がないような気がする。

そもそも看病というのは、幼児や高齢者など日常的に介助が必要な人間がいる家庭でなければ、そこまで必要ではない気がする。

もちろんコンビニにポカリを買いに行ったり病院へ送迎したり、パシリやアシとしては必要だが、それ以外にできることはそれほどなく、少なくとも自宅でつきっきりで看病をする必要はないような気がする。

もし「一瞬でも目を離すと死ぬ」という状態なら、自宅にいてはダメであり、すぐに救急、もしくは霊柩に任せるべきだ。

つまり平素自分のことを自分でできる大人であれば、多少の風邪くらいならわざわざ家族に付き添われることはなく、1人で寝ていることが多いような気がする。

むしろ、寝ている間、片時も離れずそばにいられる方が気が休まらない。

しかし「妊娠中と子供が乳幼児期に夫から受けた恨みは一生残る」という言葉もある。

つまり、弱っている時や大変な時の態度というのは遺恨になりやすく、それが原因で破局、または熟年離婚のアップが始まることも少なくない。

よって、実際払う気はなくてもレジ前で財布をチラ見せするように、つきっきりの看病などする必要はなくても、看病しようかという「提案」は行い、少なくとも心配しているということを相手に伝えておくことは大事だ。

そこで「寝ている間ずっと手を握り、卵がゆをアーンしてくれ」という、付き合って3時間以内にしか許されない要望をされても困るが、それはそれでこちらが付き合いを見直すきっかけにはなる。

しかし、看病などの「他人の世話」というのは、才能が必要とされる行為な気がする。

本人が、あれをしてくれこれをしてくれと指示をくれるならまだイイかもしれないが、それでも大変であり、正直イラつくと思う。

だが、世話の中には本人が意思を明確に表示しない場合もある。

赤ん坊の世話などはその代表であり、夜泣きをされても、まずなぜ泣いているかがわからないので泣き止ませ方もわからないという。

ちなみにこの子育ての苦労を教えてくれたのは、ゲーム『龍が如く』で赤ちゃんプレイに興じる反社会的組織の方と、その相手をする風俗嬢サヤちゃんである。

そういう意思表示をしない者の世話の場合、相手が何を求めているか的確に予想する能力が必要になってくる。

つまり「相手の気持ちになって考える」力が必要なのだ。

私はその才能が皆無であり、まず相手が何も言わなければ「何も求めていない」と判断し何もしないだろう。

これが典型的な「気がきかないやつ」である。

また相手の気持ちになって考えた結果、それが全く見当違いの場合もあり、これが小さな親切大きなお世話、良かれと思ってポリス沙汰だ。

よって世話されることになった場合も意思表示ができるなら、やってほしいことはちゃんと伝えた方が良い。

自分がかれこれ10日パンツを替えていないことを察してほしいと思っても気づかないやつは気づかないし、見当違いの「良かれ」で消防の出番が来てしまうこととがある。

しかし上には上がいるもので、世の中には「これをしてほしい」と指示してもダメな人間がいるらしい。

私は、先日まで、不倫や嫁姑バトルなど、人間同士の嫌な話を動画化したものをBGMに仕事をしていたのだが、その中にこんな話があった。

語り手の彼氏が風邪を引き、看病をしていたところ、彼氏が「冷たいうどんのようなものが食べたい」と言い出したそうだ。

しかし、風邪の時は暖かいものの方が良いと判断した語り手は「カルボナーラうどん」を作り彼に出したという。

彼氏は「ありがとう」と言ったが、自分が目を離した隙に、そのカルボうどんを流しに持っていき、カルボナーラ部分を洗い流し、冷たいうどんにしてからだしで食べているのを目撃したという。

しかし彼氏は語り手が見ていたことに気づいていないため、普通に「美味しかったありがとう」と笑顔で言ったそうだ。

それに対し語り手は「ひどいというか、怖いですよね?」と賛同を求めていたが、大体の人は「なぜ本人の希望通りにしないのか」「お前が怖い」という意見であった。

このように、本人の意思より「自分の良かれ」の方が正しいと思う人間に世話をされると、むしろ世話されない方がマシな苦痛を味わわされる恐れがある。

こういうタイプが必ずしも悪いわけでない、ただ「人の世話」には向いていないのだ。

世話というのは向いている人、もしくはやり方を熟知しているプロがやるにこしたことはない。

子供の世話は母親がやるべき、介護は家族がやるべきという考え方では、むしろ世話される側の死期を早めることになるのだ。